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連載日本史㊹ 平安京(3)

嵯峨天皇と藤原冬嗣の政治は、律令制をベースとしながらも、眼前の課題に応じて、現状に合わない部分を改めていこうとする、いわば修正律令政治であった。 810年には、律令に規定されていない令外官(りょうげのかん)のひとつとして、蔵人頭(くろうどのとう)が新設された。これは機密事項を扱う蔵人所の長官であり、内閣官房長官のイメージである。続いて816年には、これも令外官となる検非違使(けびいし)が新設される。検非違使は都の治安維持や民政を担当し、のちには訴訟や裁判も扱うようになった。いずれも、権力の集中と社会の安定を図るためのものであったと思われる。前代にもすでに中納言・按察使(あぜち)・参議・内大臣・征夷大将軍・勘解由使(かげゆし)などの令外官が設けられており、後代にも押領使・関白・追捕使などの官が新設された。律令で定められた国家組織は、この時点で相当に変容していたと考えられる。

令外官一覧(東京公務員ゼミナールより)

820年には、藤原冬嗣を中心として、弘仁格式(こうにんきゃくしき)が編纂された。各とは律令の規定を改める法令集、式とは律令の施行細則である。九世紀後半には藤原氏宗を中心に貞観格式、十世紀初頭には藤原時平・忠平を中心に延喜格式が編纂されている。いわゆる三代格式であるが、注目すべきは、その全てに藤原氏が関わっているということだ。律令の規定の改定は、現実的な政策整備であるとともに、藤原氏にとって都合の良い政治体制の創出でもあったのかもしれない。


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