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オリエント・中東史㊳ ~イランのクーデター~

エジプトが革命とスエズ戦争で激動の時代を迎えていた1950年代、イランでも大きな動きがあった。イランの油田の権利を独占していたイギリスの国際石油資本アングロ・イラニアン石油会社(AIOC)に対し、1951年にモサデグ首相が石油国有化を断行。植民地会社の追放と自国資源の自国受益を実現したのである。イギリスは対抗措置として、イラン原油の国際市場からの締め出しを図った。この時、日本の出光興産の出光佐三社長は、苦境に陥ったイラン国営石油会社と直接交渉してイランからの原油の輸入を敢行。国際石油資本による原油市場の独占に一矢を報いたのである。

だが、石油資源の権益を得るためにイラン進出を企てていたアメリカが暗躍を始める。アングロ・イラニアン社と組んだ米国CIA(中央情報局)が黒幕となり、イランの貧民層を買収して暴動を起こさせたのだ。一度は実権を失っていた国王のパフレヴィー2世と軍部がこれに便乗し、モサデグ政権はクーデターによって倒され、パフレヴィー朝が復活した。復権した国王は英米の七大石油会社(セブン・シスターズ)の合弁会社と協定を結び、米国資本はイランの石油利権の40%を獲得した。スエズ戦争ではエジプトを支持して英仏の侵略行為を非難したアメリカであったが、イランでは自らの石油利権を得るために陰でクーデターを煽って政権を転覆させていたのだ。

英米の画策によって復権したパフレヴィー2世は、極端な欧米化政策と開発独裁の政治路線をとり、白色革命という上からの近代化・欧米化を強引に進めた。彼の政策は結局は英米の国際石油資本の利益に資するものであったため、国民の経済政策は困窮し、イスラム教聖職者や学生たちによる反体制運動が各地で起こった。国王はこれを厳しく弾圧し、その指導者であったシーア派イスラム教の聖職者ホメイニ師を国外に追放した。

CIAの陰謀は後に露見し、イラン国民の反米感情は否応なく高まることになった。極端な英米寄りの独裁政治を行っていた国王に対する反発も臨界点に達し、やがてそれが1970年代末のイラン革命と米国大使館占拠事件へとつながっていく。現在の米国とイランの確執も、元を辿れば、あのクーデターが病根だと思われるのだ。一方、国際市場からの締め出しという最も苦しい時期にイランの原油を買い支えた日本の企業の存在は、その後のイランと日本の関係を良好に保つ契機となった。すなわち、歴史とは巡る因果の巨大な集積であり、そこには一個人の決断や行動も、少なからず全体に影響を及ぼしうるのである。

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