連載日本史226 昭和恐慌(1)
1926年、加藤首相が死去し、憲政会総裁を継いだ若槻礼次郎が内閣を組織した。加藤内閣以降、若槻・田中・浜口・犬養内閣と八年にわたって議院第一党か野党第一党が内閣を組織する「憲政の常道」が続くことになる。同年12月には大正天皇が崩御し、昭和天皇が即位して元号が変わった。というわけで、昭和元年はわずか一ヶ月足らずしかなかったのである。
1927年、震災手形の善後処理法案の審議中、片岡直温蔵相の失言から銀行倒産への恐れが広まり、預金者が引き出しを求めて銀行に殺到する取り付け騒ぎが全国で起こった。大量の顧客が預金を引き出せば銀行の経営が成り立たなくなる。結果的に銀行の休業が続出し、不安に駆られた民衆が更に預金の引き出しを求めて銀行に殺到するという悪循環の中、不況で経営不振に陥っていた大企業の鈴木商店が倒産した。政府は巨額の不良債権を抱えた台湾銀行を救済しようとしたが、枢密院の了承が得られず若槻内閣は総辞職した。
憲政会の若槻内閣に代わって政権に就いた立憲政友会の田中義一内閣は、緊急勅令によって三週間の支払猶予令(モラトリアム)を発し、その間に日本銀行からの多額の融資を行い、金融恐慌をようやく沈静化した。この過程で多くの中小銀行の整理・合併が進み、三井・三菱・住友・安田の四大財閥が産業界を支配する独占資本主義の構図ができあがった。財閥は政党との結びつきも強め、三菱と憲政会(立憲民政党)、三井と立憲政友会の関係は周知の事実となり、政党に対する反発を強める一因にもなっていった。
普通選挙法の施行と不況の進行は、労働運動や農民運動を基盤とした無産政党の結成を促した。1925年に日本初の無産政党である農民労働党が結成されたが、非合法の共産党員が含まれているとの理由で即日禁止処分を受けた。翌年、形式上は共産党員を除外した形で労働農民党が組織されたが、内部対立から左派の労働農民党、中間派の日本労働党、右派の社会民衆党の三党に分裂した。結局、総選挙では三党の票の奪い合いによって無産政党陣営は惨敗を喫した。
選挙では勝利したものの、田中内閣は左派労農党の背後に非合法化したはずの共産党の活動が見られたことに危機感を持ち、選挙直後に共産党員の一斉検挙を行い、緊急勅令によって治安維持法を改定して罰則に死刑を加え、特別高等警察(特高)の設置を全国に拡大した。露骨な思想弾圧である。
金融恐慌における政府の対応は、日本銀行券の増発による対症療法的な救済措置の繰り返しであった。貨幣の供給量が増える一方であれば、当然ながらインフレが生じて物価が上がる。大戦後の戦後不況と関東大震災のダメージによって工業製品の国際競争力は落ち、貿易面では再び輸入超過の状況が続いていた。大戦景気の旨味を忘れられない政財界には「もう一度戦争が起こってくれれば」という潜在的願望が芽生えていたのかもしれない。昭和初期の外交は、次第に自国中心の強硬姿勢へと転じていくのである。