連載日本史250 戦後の国際情勢(2)
国際社会が資本主義陣営と社会主義陣営に二極化していく中、日本国内では既存政党の復活や新政党の誕生が相次いだ。戦中の翼賛選挙での主流派は日本進歩党を結成し、反主流派は立憲政友会系の鳩山一郎を中心に日本自由党を結成した。一方、協同組合の育成や労使協調を掲げた日本協同党、旧無産政党諸派を統合した日本社会党も結成され、徳田球一・野坂参三らを中心とした日本共産党も活動を再開した。1946年に実施された戦後初の総選挙では、親英米派の元外交官である吉田茂が、日本自由党を基盤に、日本進歩党の協力を得て、第一次吉田内閣を組織した。吉田内閣は戦後経済の安定を図るため、資材や資金を石炭・鉄鋼などの基幹産業に集中する傾斜生産方式を採用し、復興金融公庫の融資と補給金の交付を重点的に行った。
1947年、新憲法の施行に向けて行われた総選挙では、日本社会党が労働運動や農民運動の高揚を背景に衆議院第一党となり、片山哲を首相として、日本進歩党に日本自由党の一部を加えて結成された民主党や日本協同党との連立内閣を組織した。片山内閣は吉田内閣の経済政策を継承しながら、炭鉱の国家管理などの社会主義的政策を実現しようとしたが、連立政権内の調整に苦しみ、一年足らずで倒れた。農地改革で自らの土地を手に入れた農民たちは急速に保守化し、全国で結成された農業協同組合(農協)は巨大な全国組織に成長しつつあった。政党だけでなく、その支持基盤も、激しく変化していたのだ。
1948年には片山内閣に代わって、民主党の芦田均を首相とする連立内閣が成立したが、昭和電工疑獄事件により、これも短命に終わった。その後は、日本自由党を母体とした民主自由党を結成した吉田茂が首相に返り咲き、1954年までの長期にわたる政権を維持した。元外交官である吉田は、冷戦の進行による国際情勢の変化や、GHQの方針転換を敏感に察知しながら、占領からの独立と国際社会への復帰に向けて動き始めたのである。
一方、1946年から1948年にかけて、連合国によって設置された極東国際軍事裁判所において日本の戦争犯罪を裁く東京裁判が行われていた。東条英機・松岡洋右・広田弘毅・木戸幸一28名が重大戦争犯罪人(A級戦犯)として裁かれ、東条以下7名の死刑をはじめとして全員が有罪とされた。ただし、11名の裁判官の間には意見の対立があり、インドのパル判事らは反対の意見書を残している。さらに、戦時中の捕虜や住民の虐待などの罪で5700名あまりのB級・C級戦犯が起訴され、984名が死刑、475名が終身刑の判決を受けた。一方で天皇の戦争責任は不問とされ、A級戦犯のひとりであった岸信介が後に米国への協力を約して釈放されるなど、政治色の強い裁判だったといえる。戦争の勝者による敗者への断罪には割り切れない思いも残るが、それでは日本が自らの手で自身の戦争犯罪を裁くことができたかと問われると、それもまた難しいと答えざるを得ないのが事実である。