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連載日本史㊸ 平安京(2)

806年、桓武天皇の崩御の後、即位した平城天皇は、自身の妃の母、つまり義母にあたる藤原薬子(くすこ)を寵愛し、彼女の兄の藤原仲成を重用した。病弱だった平城天皇は,809年には弟の嵯峨天皇に譲位し、自身は平城旧京に移るが、その後も太上天皇としてしばしば政治に介入し、「二所朝廷」と呼ばれる混乱を引き起こした。

平城・嵯峨天皇関係系図(tadtadya.comより)

平城太上天皇と嵯峨天皇の対立の背景には藤原氏同士の内紛があった。律令政治の礎を築いた藤原不比等には四人の息子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)がおり、それぞれの子孫が南家・北家・式家・京家を名乗っていた。奈良時代に反乱を起こして討たれた藤原仲麻呂(恵美押勝)は武智麻呂の子、すなわち南家にあたる。平城上皇が寵愛した藤原薬子は式家であり、上皇は彼女の兄の仲成を重用した。いわゆる閨閥人事である。一方、嵯峨天皇のもとには北家の藤原冬嗣(ふゆつぐ)がいた。仲成・薬子兄妹の目にあまる専横に対して、嵯峨天皇と冬嗣は強硬策に出た。810年、朝廷は仲成を逮捕し射殺、上皇は薬子とともに東国に向かったが連れ戻され、薬子は自害した。その後は冬嗣の子孫の北家が権力を独占していくこととなるのである。

空海・橘逸勢と並んで三筆の一人に数えられた嵯峨天皇の筆とされる光定戒牒(延暦寺所蔵)

平城太上天皇の変(薬子の変)は後世に二つの教訓を残した。第一に、男女の愛欲に根ざした閨閥人事はロクな結果をもたらさないという教訓、第二に、トップを退いた人間が陰の実力者として権勢をふるおうとすると、これまたロクなことにはならないという教訓である。二重権力の弊害を思い知った嵯峨天皇は、自身が譲位した後は内裏から退き、一切の政治との関わりを絶ったそうだ。

余談だが、仲成・薬子兄妹の死から345年もの間、日本で死刑が執行された記録はない。律令には死罪の規定があったものの、事実上は死刑廃止の状態が三世紀以上も続いていたわけだ。日本で再び死刑が復活するのは、院政期に起こった保元の乱においてである。乱の背景には、天皇と上皇の二重権力の争いに加えて、男女の愛欲のもつれもあったといわれる。奇しくも、二つの教訓が忘れ去られた時に、世が乱れ、悲劇が起こったのである。歴史の教訓を守り続けるのは難しい。



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