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オリエント・中東史㉖ ~オスマン帝国の衰退~

16世紀前半、スレイマン1世の下で全盛期を迎えたオスマン帝国は、彼の死後、1571年のレパントの海戦でスペインのフェリペ2世が誇る無敵艦隊をはじめとした欧州連合艦隊に敗れはしたが、16世紀末までは概ね安定した治世を保った。帝国が衰退の兆しを見せ始めるのは17世紀に入ってからである。内政面ではスルタンに代わって宮廷出身の軍人が大宰相として実権を握るようになり、権力闘争が激化した。対外的には東隣のイランでシーア派サファヴィー朝がアッバース1世のもとで最盛期を迎え、オスマン帝国に敵対して1623年にはバグダードを占領した。帝国は10年後にはバグダードを奪回したものの、往時の勢いに翳りが見えたのは明らかだった。

1683年、大宰相カラ・ムスタファは、かつてスレイマン1世が成し遂げられなかったオーストリア征服を狙って15万の大軍を擁し、第2次ウィーン包囲を敢行した。神聖ローマ皇帝レオポルド1世は周辺諸国に援軍を求め、オスマン軍の侵攻を退け、その勢いでオスマン帝国領への反攻を開始し、1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーとトランシルバニアの大半を獲得するに至った。これによってオーストリア・ハプスブルグ家は中欧・東欧での覇権を確立し、逆にオスマン帝国は衰退への長い道のりを辿り始めたのである。

オーストリア・ハプスブルグ家の宿敵であったフランス・ブルボン王朝と手を結んだオスマン帝国にとって18世紀前半は比較的安定した時代であった。しかし、18世紀後半になると、ロシアのエカチェリーナ2世の南下政策によってクリミア半島を失う。黒海を足掛かりに不凍港を確保して勢力拡大を狙うロシアは、イスタンブールやバルカン半島にも触手を伸ばし、それが後に「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるバルカン半島の民族対立にも繋がることになる。国内ではアラブ人の民族意識の高まりに呼応したイスラム純化運動を進めるワッハーブ派の勢力が拡大し、アラビア半島の有力部族であったサウード家のムハンマド・イブン・サウードを中心にワッハーブ王国が建国された。現在のサウジアラビアの前身である。

アメリカ独立戦争やフランス革命・ナポレオン戦争の激震が欧州全土に広がり、イギリスから始まった産業革命も相まって欧米での政治・経済において急速な近代化が進んだ18世紀末から19世紀にかけて、オスマン帝国でも内部改革の必要性が繰り返し叫ばれてきたという。危機感はあったのだ。ただ、実際に改革を進めようとすると、既得権益を擁護する保守派の反対に遭って頓挫するのが常であった。大きすぎて変われない。国力の衰退が見えていながらも自己改革に踏み切れない閉塞状況が、慢性の生活習慣病のごとく、肥大化した帝国を蝕んでいたのである。

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