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ローマ・イタリア史③ ~共和政ローマ~

前287年のホルテンシウス法の成立によって、平民会の決議が元老院の承認なしでも国法となることが定められ、身分闘争は一応の決着をみた。ここにローマは貴族共和政から平民も含めた本格的な共和政へと移行したのだ。だが、平民の有力者が元老院議員の資格を得て新貴族(ノビレス)となり、新たな階級が生まれたことは先述した通りである。貴族の終身議員で構成される元老院は依然として力を持ち、独裁官(ディクタトル)への権力集中も法的に認められていた。そういう点では、僭主の陶片追放という独裁排除のシステムを持っていたギリシャ・アテネの民主政とは随分異なる様相を呈していたと言える。

ギリシャ民主政との相違点は他にもある。アテネの市民権はアテネ市内の住民に限定されていたが、ローマの市民権は支配領域の拡張に伴って植民市の住民にも賦与され、奴隷の身分から経済的成功を遂げて自由の身となった解放奴隷にも及んだ。そもそも家内労働を主としたギリシャの奴隷制と、大規模な奴隷労働によって大土地所有制を発展させたローマの奴隷制では、その制度基盤自体が異なっていたのだ。

こうした両者の違いは国家形態の違いに帰結する。すなわちギリシャでは、経済的・軍事的拡大が著しかった時代においても、国家形態は都市国家とその同盟の域を出ることはなかったが、ローマでは経済的・軍事的拡大がそのままローマの領土拡大となり、前3世紀前半のイタリア半島統一にとどまらず、その後も更なる支配地域の拡大へと乗り出すこととなる。ローマにおける市民権の拡大賦与は、都市国家から広域支配国家への脱皮がもたらした結果でもあった。

支配地域の拡大は、当然のことながら周辺諸勢力との軋轢を生む。特に貿易の利害関係において、ローマ最大のライバルとなったのは、西地中海の海洋貿易を支配していたフェニキア人の国家カルタゴであった。前264年、シチリア島のギリシャ植民市であったシラクサから対カルタゴ戦への援軍を要請されたローマはカルタゴとの開戦に踏み切る。地中海の覇権を賭けた、三度にわたるポエニ戦争の幕開けであった。

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