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トマトと楽土と小日本 ~賢治・莞爾・湛山の遺したもの~⑨<最終回>

朝鮮戦争が勃発し、サンフランシスコ講和条約で日本が米国との安全保障条約とセットで一応の独立を遂げた翌年の1952年、公職追放の解除を受けて、湛山は政界への復帰を果たす。1954年には日本民主党の鳩山一郎内閣に通商産業大臣として入閣した。米国追従ではない自主独立路線を目指す湛山は、ソ連との国交回復に向けて動いた。1955年の保守合同以降は鳩山首相とともに自由民主党に参画。1956年の日ソ共同宣言による国交回復後に鳩山首相が退陣すると、後継の自民党総裁選に出馬し、岸信介と激戦を繰り広げた。

岸と湛山の争いは、冷戦下の国際情勢を反映して、対米追従か自主外交かの路線対立であった。僅差で岸を破って勝利した湛山は第55代内閣総理大臣に就任。鳩山内閣時代からの懸案であった国民皆保険制度の確立を閣議決定。池田勇人を大蔵大臣に任命し、福祉国家建設に向けて積極財政政策に踏み出した。過労がたたって脳梗塞を発症したために、わずか2か月余りで退陣を余儀なくされたものの、特に経済政策においては、後の日本の経済的発展の礎を築いたと言える。東洋経済新報時代から経済政策のオピニオンリーダーとして第一線で体を張ってきた湛山の面目躍如といったところであろう。

早すぎた湛山の退陣の後を受けて首相となった岸のもとで、日本の外交は対米追従路線を走ることになる。もしも湛山が病に倒れず、長期政権を維持していたなら、日本の外交政策は随分と違ったものになっていたかもしれないが、こればかりはどうしようもない。その後の岸内閣が日米安保条約改定の強行採決に踏み切り、良くも悪くも現在に至る米国追従の日本外交の流れが確立していったのは、歴史が示す通りである。

退陣後しばらくして病から回復した湛山は政治活動を再開し、1959年には独自に中国を訪問して周恩来首相と会談した。湛山はこの時、冷戦構造を打破する日中米ソ平和同盟の構想を語り、これに共鳴した周は湛山と手を携えて共同声明を発表。それが後に田中角栄首相のもとでの日中共同声明による国交正常化につながったとされる。

1973年春、湛山は88歳の生涯を終えた。言論・経済・思想・政治の各方面において日本の近現代史に数多の業績を残した偉大なる巨人の死であった。

 賢治・莞爾・湛山と、同時代を生きた三者の生涯を螺旋状に辿ってきた。彼らの残した足跡から私たちが学ぶべきことは数多い。日蓮思想をバックボーンに持つ彼らは、ラディカルに思考する行動主義者であるという点では共通していた。行動こそが思想に命を吹き込むのだ。賢治のように、たとえそれが未完に終わったとしても、いや、未完であるからこそ、そこに後世の人々が参画できる共同作業の余地が生まれるのである。だから未完を恐れず、ラディカルに思考し、行動すべきだ。ただし、莞爾のように、目的を達成するための手段を間違えてはならない。それは目的そのものの正当性を失わせ、周囲を不幸に巻き込み、自らにも累を及ぼすことになるだろう。そして湛山のように、思考の根底には確かな事実と豊富な客観的データを常に置くべきである。インターネットを介して、虚実入り混じった玉石混交の情報が溢れる現代においては尚更のこと、確かな思考と行動の礎となる情報リテラシーを持つことが必要不可欠なのだ。

平和とは、静的な状態としての一面と、動的な行為としての一面を併せ持った概念だと考える。特に後者においては、政治や経済や外交における大きな流れを創り出すのも大切だし、そのために為政者や企業や国際機関などの大きなアクターへの働きかけを積極的に行うのも有効だろう。一方で、私たちひとりひとりが小さなアクターとして、自らの手の届く範囲で、真摯な思考と行動を続けていくことも、同じように大切なのだ。

死を前にして若き特攻隊員が綴った言葉にある通り、世界が正しく、良くなるために、ひとりひとりが、ひとつひとつの石を積み重ねていくのだ。後から積んだ人の石を諸共に落とすような不安定な石ではなく、なるべく大きく良い石を、先人たちが積み上げた塔の上に積み重ねたいものである。

 <参考文献>
・増田弘『石橋湛山 リベラリストの真髄』 
・船橋洋一『湛山読本 ―いまこそ、自由主義、再興せよ―』
・山口正『思想家としての石橋湛山』 
・佐高信『黄沙の楽土 ―石原莞爾と日本人が見た夢―』 
・『宮沢賢治全集』 
・日蓮『立正安国論』 
・宮下隆二『イーハトーブと満洲国―宮沢賢治と石原莞爾が描いた理想郷』 
・『きけわだつみの声』 

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