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連載日本史83 鎌倉文化(1)

鎌倉文化といえば仏教である。それは奈良・平安時代の仏教のように鎮護国家を目指したエリート層のための教えではなく、密教のように複雑な祈祷の秘儀や厳しい修行を要するものでもなかった。ひたすら念仏、ひたすら座禅――。きわめてシンプルに、一般庶民にもわかりやすく救済を説く、いわば「大衆に優しい」仏教だったのである。

鎌倉新仏教一覧(「世界の歴史まっぷ」より)

「易行」「選択」「専修」が、鎌倉仏教のキーワードである。すなわち易しくできる修行を一つ選んで一途に打ち込むことで救いが得られるのである。思い切ってハードルを下げ、広く庶民に受け入れられる教義を展開した鎌倉仏教諸派の布教戦略は、時代の転換期に生きる人々の不安な心情に強く訴えかけ、急速に信者を増やしていった。

救済方法として何を選択したかによって、鎌倉仏教は浄土宗系・天台宗系・禅宗系に大別される。「念仏」を選択した浄土宗系には、法然の開いた浄土宗、親鸞の開いた浄土真宗(一向宗)、一遍の開いた時宗(遊行宗)があるが、いずれも「南無阿弥陀仏」という念仏をひたすら唱えて仏にすがる他力本願を旨とする点で共通していた。

浄土宗総本山・京都知恩院(知恩院HPより)

美作(岡山)の押領使の息子であった法然は、比叡山で修業を積み、京都を拠点として布教に入った。源平合戦において須磨の海岸で平敦盛を討ち取った熊谷直実が、諸行無常の世を儚んで帰依したのも、布教間もない浄土宗であった。易行としての専修念仏を説く法然は、旧仏教勢力からの訴えで讃岐(香川)に流されるが、彼の教えは京都周辺を中心として広く受け入れられた。法然の死後は、彼の布教の拠点であった京都東山に知恩院が建立され、弟子たちが彼の教えを受け継いで念仏往生の思想を広めていった。

浄土真宗大谷派の本山・京都東本願寺(東本願寺HPより)

法然に師事し、他力本願の浄土宗の教えをさらに先鋭化して「悪人正機」「一向専修」の思想を説いたのが、浄土真宗の開祖である親鸞である。自力では救いに到達できない悪人にこそ、念仏を唱えて仏にすがり切ることで救済を得られる豊かな可能性があるという親鸞の逆説的な教えは、それまで仏教の救済の対象からはみ出しがちであった下層の人々にとって大きな魅力を持つものだった。それだけ旧勢力からすれば危険思想であったといえよう。彼もまた越後(新潟)へ流罪となるが、むしろそこで布教に励み、北陸・東国に信者を増やした。京都に戻って死去した親鸞の入滅の地には大谷本願寺が建立され、浄土真宗の拠点となるが、その後も本願寺は旧勢力や政治権力との対立からしばしば焼き討ちに遭い、大谷から山科、石山へと転地を余儀なくされた。従来の戒律にとらわれない親鸞の思想は誤解を受けやすく、弟子の唯円が「歎異抄」を著して、親鸞の教えの核心である悪人正機について詳細な考察を試みている。

龍谷寺本願寺の本山・京都西本願寺(西本願寺HPより)

伊予の豪族の子である一遍の創始した時宗(遊行宗)は、踊念仏という異色の布教を行った。信濃(長野)を皮切りに諸国を遊行(ゆぎょう)しながら踊念仏を広めた一遍は、その派手なパフォーマンスと機動力で、全国に信者を獲得していった。四国で生まれ、信州で布教を開始し、東北から九州に至るまで念仏を唱えて踊りまくり、河原者や悪党も含めた多様な階層の信者を持ち、神奈川・藤沢の清浄光寺(遊行寺)に総本山を置いた時宗の開祖一遍は、地域的にも身分的にもボーダーレスな魅力を持った行動派の思想家であったと言えよう。

時宗の総本山・清浄光寺(遊行寺)(清浄光寺HPより)

「念仏」を選択した浄土宗系に対して「題目」を救済の柱として選択したのが天台宗系の日蓮宗(法華宗)である。念仏は「南無阿弥陀仏」、題目は「南無妙法蓮華経」。素人目には、さほど違いのないようにみえる両者ではあるが、信者にとってみれば大違いである。念仏が阿弥陀仏の慈悲にすがって来世での極楽往生を願う他力本願の思想に基づくのに対し、題目は妙法蓮華経(法華経)に帰依し現世でいかに仏の教えを実現して生きるかに焦点を置き、ひいては個人の救済のみならず国家の安定、すなわち立正安国を目指す思想を内包している。日蓮は、法華経のみが唯一の釈迦の教えであるとし、他の宗派を邪教として徹底的に批判した。当然のことながら、日蓮は各方面から迫害を受け、地頭の襲撃を受けたり、佐渡や伊豆に流罪になったりと、散々な目に遭っているのだが、それが彼の「救世主」としてのモチベーションを更にかき立てる結果になったようである。1260年に「立正安国論」を著し、念仏を禁じて法華経を信仰しないと国家の危機を招くと、当時の執権である北条時頼に訴えた日蓮だが、その後、蒙古襲来が起こり、日蓮宗の信者たちは、彼の予言が当たったということで、改めて教祖への畏敬の念を深めたという。

日蓮宗の総本山・山梨見延山久遠寺(久遠寺HPより)

日蓮宗は後世には分裂と統合を繰り返し、現代では山梨の見延山久遠寺に本山を置く日蓮宗と、静岡の富士宮にある大石寺を総本山とする日蓮正宗に分かれているが、特筆すべきは創価学会や公明党との関係であろう。もともと日蓮正宗の信者である教育者が集まって設立した創価教育学会は、戦時中に初代会長が治安維持法によって逮捕されて獄中死するという悲劇に見舞われる。戦後、創価学会と改称した組織は、1950年代に広範な布教活動を繰り広げ、急速に信者を増やした。60年代には池田大作会長のもとで政界進出を表明、公明党が設立された。日蓮正宗と創価学会の関係は80年代以降急速に悪化し、90年代には破門による絶縁に至ったが、その後も創価学会は国内だけでなく海外にも活動を広げ、公明党は自民党と組んで政権与党に躍り出た。

日蓮正宗総本山・静岡大石寺(日蓮正宗HPより)

こうしてみると、鎌倉仏教の諸宗派の思想は、八世紀にわたる歳月を経て、現代の日本にもリアルタイムで息づいていると言える。ひょっとしたら「易行」「選択」「専修」は、鎌倉仏教だけでなく、現代にも通じるキーワードなのかもしれない。書店やネット上に並ぶ「誰にでもできる○○」「あなたの選択が○○を変える」「成功する人が実行しているたったひとつの○○という習慣」などの自己啓発本のタイトルの数々を眺めていると、「鎌倉時代か?」とツッコミを入れたくなるのだが、激動する社会の中で何かにすがって不安を解消したいという現代人の心性は、諸行無常の時代に生きる不安を抱えていた鎌倉時代の庶民たちと、どこか通底するものがあるようにも思えるのだ。








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