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実家が片づかなかったのは、わたしのせいかもしれない(後編)
母と実家の片づけを始めたものの、母はモノの選別がイヤになってしまった。
わたしはようやく思い出した。
実家を物置きに利用していたのはわたしだ。
わたしだって一人暮らしをして数年はモノを捨てられなかった。
まだ使えそうなもの、高かったものを実家に送って「よかったら使って」と処分を押しつけていたのだ。さらに思い出の品の保管もお願いしていた。
モノを大切にしなさいと言われて育ってきた母は、なんとか工夫して使おうとしてくれた。使い切れないものは保管していてくれた。
帰省したときに、気が向いてちょこっと昔のものを触ると、懐かしくて楽しくなる。
買えば数百円で済むようなものを発掘して、「これ、使えそうだから持って帰る」と再び一人暮らしの部屋に持ち込んだりしていた。
「さすが実家にはなんでもあるね」
「母さんは物持ちがいいもんね」
そう言って母を褒めていた。
この言葉が母を縛りつけていたのではないだろうか?
だから母はせっせとモノを保管していた。
なのに娘は急に片づけに開眼して、次は捨てろという。
長所だと思っていたことを急に否定されたら、受け入れられないだろう。
結局わたしは寄り添った言葉をかけられなかったが、母は自分で落ち着きを取り戻してまたモノの選別を始めた。
一緒にいるとまた口を出しまうので、わたしはすでに選別が終わった台所の配置を見直すことにした。
これがいいきっかけになった。
実家の台所は昔ながらの壁付けキッチンだ。
母はずっと対面式に憧れていたけど当時はリフォームする余裕がなく、今となっては料理をしながら見守りたい子どももいないからリフォームする必要がなくなった。
そこでシンクに向かって作業できるスペースを確保しつつ、背中側にキッチンワゴンを置くことでカウンター風にした。
料理中は作業台が手狭になっていたが、カウンターがあることで仮置き場になるし、簡単な調理ならカウンターでできるからダイニングの様子も見られる。
母はその配置を「対面式みたい!」とても気に入ってくれた。
モノの選別が潔くなったのは、それからだった。台所が使いやすくなったことが実感できて、モノを処分するメリットが腹落ちしたのだろう。
あれから8年経ったけど、母はまだ「あのとき片づけてよかった」と言ってくれる。
わたしが一緒に台所に立つと、ここのカウンターがとても使いやすいと褒めてくれる。
いま、母はアルバムの整理をしている。
思い出の象徴である写真は処分がむずかしいから、こんまりメソッドでは一番最後に片づけるボス的扱いになっている。
アルバムが数十冊あったのだが、その中に大切な写真と記録的なものが入り混じっていて、開くのがおっくうになっていたのだという。
だから整理して、大切な写真だけの厳選のアルバムをつくるのだそうだ。そしてそれをすぐに手に取れるリビングに置くのだと、嬉しそうに話している。
ほかに母を縛ってしまった言葉はないだろうか?