日記は捨てるべきか、残すべきか
もうすぐ実家に帰る予定。帰ったらやらねばならぬことが1つある。
過去の日記へのお沙汰だ。
あの日記にはドロドロの黒歴史がつまっている。負のパワーの集積によって、呪いの生物が生まれているかもしれない。
封印を解いたら、島根が闇に覆われてしまうかもしれない。
(人口70万人だから、あんま影響ないか笑)
なにかの歯車が狂って、わたしがとんでもない有名人になって(これからだったらきっと悪い方だろう)後世でわたしの研究者が日記を発掘でもしたら、わたしは死してなお辱めを受けることになる。
昔の偉人は私的な日記や手紙も分析されて大変よね~と思っている、そっち側になってしまうのだ。
わたしが日記をつけてみようと思ったのは、『アンネの日記』に影響された小学校高学年のころだったと思う。
伯母からもらったかわいい表紙の鍵付きノートは、特別なことに使おうとずっとしまってあった。
アンネのような日記を書くにぴったりだーーって始めたけど、ぴったり3日で書かなくなった。わたしらしい。
「コツコツ継続する力」が欠けていたわたしは、毎日日記をつけることに憧れて新年などのタイミングに乗っかってはやめていった。
実家に送ったのはほぼ日手帳のはずだから、大学生から社会人数年目のころの手帳だろう。
あのとき日記をつけていた原動力は「この気持ちを忘れたくない」というものだった。
初めてできた恋人へのノロケだったりハートたっぷりの気持ち、別れることになった辛さ、新たな人との出会い、初恋の思い出ーー当時は恋愛のウェイトが大きかったから、その気持ちを思うままに書いたはずだ。
で、あんなに忘れたくないと思った気持ちだったのに、20年経った今は思い出したいとはまったく思わない。
あの気持ちはそのまま沈殿していただきたい。なかったことにしたいくらいだけど、一度起こってしまったことは残念ながらなくならない(「エターナル・サンシャイン」みたいに消す装置があればなぁ)。
ときどき揺り動かされて思い出があがってくると、昔飼っていた犬の名前を叫びたくなる。
20年後の今は処分したくても、50年後は懐かしく思うものなのだろうか? だって20年前は「ぜったいに忘れたくない」と思っていた気持ちが変化したのだ。50年経てば分からない。
モノと違って必要になったらまた買えるものでもないから、捨てるのは惜しい気もする。
るいさんの記事を読んで、なるほどこういう考えがあるのかと気づいた。
(わたしの下手な文章でまとめられないので、ぜひこの記事を読んでほしい!)
そう考えるとわたしの恋愛はーーじゃない、恋に目がくらんで周りが見えなくなったり、大切な人を傷つけてしまったり、人として恥ずかしい行動をした自分はまだ終わってないのだと思う。ときどき揺れ動くのもそれせいだろうか。
「終わった」と思えるときに、また違って見えるものがある気がする。
そう思うとやっぱり捨てられないなぁ……。