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闇色の猫の転生の旅物語

 「大丈夫、あなたは、〈io〉だから」
と言われて、送り出された。誰だろう。
 〈io〉とは、〈わたし〉という意味だ。
 「あなたは、わたしだから、大丈夫」
とは、どういうことなのか。
 わからないけれど、旅に出る。

 宇宙の高みへ降りてゆく。

 高みへ降りるなど、矛盾して聞こえるかもしれないが、真実だ。宇宙の高みへ昇りゆくことと、宇宙の深みへ降りてゆくことは、ひとしいことなのだから。

 仮に地上から、わたしの姿が見えたなら、天へ上昇するように見えただろう。しかし、わたしの体感としては、下降していた。

 わたしは、地上から上空へ、宇宙へ、高みへ、宇宙階段を降りていた。宇宙の闇は深く、階段の踏面は、全く見えなかった。しかし、わたしが一歩ずつ降りるごとに、踏面は、白い光が忽ちに立ちのぼるようにして現れた。

 わたしが一歩踏み出した瞬間、星々が集結して発光し、わたしの足を支えるようだった。そして、わたしが次の一歩を踏み出した瞬間、散り散りになって、宇宙の闇へ消えてゆくのだった。

 わたしは、闇色の猫である。
 闇色の猫であるわたしには、宇宙の闇が浸透している。
 闇とは、永く長いもの。
 わたしは、闇に紛れて、闇とともに、永く長い旅をしていた。

 明滅する階段に導かれて降り立ったのは、一面灰白色の、荒涼とした大地だった。

 つま先が触れた時点で、すでに、熱のない硬質的な感触と響きから、不毛な土地、という印象を受けた。

 闇におおわれたその星を、目で見ることはできない。しかし、わたしの眼はスキャンする。わたしが眼を向けると、赤外線カメラのように、その星のすがたや色が、眼に映るのだ。

 その星に、生きているものの痕跡をさがしたが、やはり不毛だった。何もなかった。寂寞とした大地が広がるだけだった。すこしの失意を感じたが、ほんのすこしだった。何の感情もない。わたしは、ただ旅をするだけだ。

 しかし、その不毛な星にも、〈しるし〉はあった。灰白色の岩と砂のみの、無機質な廃虚としか見えていなかったが、そのなかに、〈それ〉だけが明らかに異質な、光沢のない薄鈍色の、何らかの金属製と思われる十字架があった。

 「キリストは、この星にも来たったのだ」
と、そのときに気づいた。

 そう、わたしは、神の〈しるし〉を訪ねて旅する猫なのだ。なぜ、そうであるのかは、わからない。それが、わたしの使命なのだ。生きるよりほかにない。

 わたしは、〈しるし〉……薄鈍色の十字架……の前に佇んだ。
 (ずっと、あなたを、追いかけて、さがしもとめているのです)
 祈るように呼びかけ、目を瞑ると、いつもとおなじように、〈こたえ〉がかえってきた。

 キリストの魂は、わたしの眉間……第三の眼……に、光をおくってくれた。
 十字架の交点、ハートの中心、その途方もない背後から、光は真っ直ぐに届いた。

 十字架の、秘められた第三の方向。このことを識る者は、多くはない。
 しかし、この、心を貫く第三のベクトルがあるからこそ、いかなる時空にも……天の使いにも、地を這う者にも……未来にも、過去にも……十字のかたちは顕れる。ゆえに、〈しるし〉であるのだ。

 わたしは、十字の交点を貫いて流れてくるハートの光を、第三の眼……サードアイ……から受けとり、背骨を通し、尾骨を経由して、尻尾の先で、星へとアースした。光は、わたしと星を満たしていった。

 すぐさま、「この星は大丈夫だ」と観じた。わたしがアースして流すまでもなく、内部には、光が、十分に満ちていた。表面は灰白色だが、内部は、橙みのある黄金の光が波打つかのようだった。見えないが、みえた。わたしも、満ちた。

 ふと、出来心のように閃いて、わたしは十字架の左肩に、ひょいと飛びのった。猫ゆえに容易いことだ。
 「キリストが最期に見たものを、わたしも見たい」
という思いからだった。

 キリストの視線を辿り、初めに見たのは、かれの血の滴り落ちたであろう大地だった。かれは、瀕する底辺をこそ、いちばんにまなざしていた。
 しかし、この星は、もはや、奥底ほど黄金に満ちている。

 キリストが次に見たもの……おそらく最期の最後に見たもの……は、宇宙の闇の奥の奥、はるか彼方の星だった。

 次の瞬間、その星に転生していた。以前のように長く旅するということはなく、一瞬のことだった。ただ、闇色の猫であることに変わりはなかった。

 そこは、ラピスラズリとエメラルドに輝く、絢爛たるモスクだった。その時代、その地域の、美の粋を極めた祈りの場……聖域……だった。
 人々は、日に何度も、身を投げ出して礼拝していた。そこには、帰依を絶対とする者たちの、たゆみない祈りがあった。

 宇宙の闇にひそむ灰白色の星から、突如、色彩の横溢する世界に来た。
 あまりの転回、そして、色彩の熱量、流量、情報量、その層の厚みに、目眩を覚えるほどだった。
 色彩の横溢とは、つまり、いのちの横溢でもある。匂いも音も鮮烈であり、鮮やかに色づいていた。 
 わたしは、いのちの躍動に満ちた人々の生活の合間で、野良猫として、その生を生きた。

 そのうち、いつの間にか孕み、仔猫を産んだ。

 仔猫の呼吸……胸のちいさく上下するさま……を、一晩中、目を細めて見つめていた。日中も、一日中、仔猫のからだを舐めていた。何せ、いとおしくてたまらなかったのだ。これまでに体験したことのない、強く熱い感情だった。

 これほどまでに、いとおしく思える存在が存在することに、目を瞠る思いだった。これほどまでに、存在をいとおしく思えるじぶんにも驚いていた。
 開眼する、というような。

 母猫であるわたしが闇色の猫であるのに、仔猫たちの毛色は、わたしには似ても似つかぬ白銀だった。
 仔猫たちは、朝夕、モスクに射しこむ陽の光に、けぶるように紛れ、光と化して見えなくなることが、ままあった。一方で、夜の闇のなかでは、遠い星のかすかな光をも拾い、仄かに発光するようにも見えた。親であるわたしとは真逆の、光の子どもたちなのだ、と思った。

 そう、闇が光を生むというのは真実だ。知るかぎり、逆はない。光も影を生むが、影は闇ではないのだから。

 やがて、仔猫たちは成長して自立し、わたしのもとを離れていった。近くには居たものの、互いに気ままな猫なので、干渉し合うこともなかった。

 わたしは、日がな、モスクで過ごした。猫は寝子、とも言われるごとく、丸くなって寝てばかりいた。熱心に祈る人々のすがたを、横目でじっと眺めていた。

 ある日、ふと、何かを思い出すようにして思い立ち、わたしも彼らを真似て祈ろうと思った。
 わたしは、礼拝する人々に倣い、聖地の方角を向いて、円形の床へ、うやうやしく身を放擲した。

 そうして畏み額づいた瞬間……第三の眼を地に伏せた瞬間……どこかへ吸いこまれるようにして暗転し、その時代のわたしは死んだ。

 大地へ額づいたはずだったが、一転、はるか上空、ふたたび、宇宙の闇のなかにいた。
 否、それまでのように闇に包まれるのではなく、逆に、わたし自身が宇宙の闇そのものとなり、もくもくとした煙のようなすがたで、渦巻いていた。

 わたしは、みずからが左回りに渦を巻くのを感じていた。しかし、下方から見れば右回りだっただろう。
 左回りと右回り……エネルギーを抜くことと注ぐこと……は、同時に起こっている。視座によって見え方が異なるにすぎない。
 交換や循環、というのでもない。エネルギーは遍満しており、一方他方と分けられるものでもなく、還るものでもないからだ。

 煙状になって拡がり、増大していくわたしは、おのれの闇色のからだで、宇宙を黒々とおおっていった。
 星々をも、次々と、洗いざらい飲みこみ、あたかも、巨大なブラックホールと化していた。

 そのうち、かたわらに、熱を覚えた。
 そのときには、周囲を貪欲なまでに取りこみながら、おのれは、熱も色もない、巨大であるのに空虚な、トグロになり果てていたにもかかわらず、である。

 その熱は、仔猫たちと離れて以来、ひさしく感じていない感覚だった。思わず、とうに闇に退化していた目を開くと、白銀の猫がみえた。
 「あぁ、この猫が、仔猫たちの父親か」
と、そのときに思った。いま、このときに出会い、孕んだのか、と。

 こたえ合わせのようだった。時間軸の逆転、あるいは倒置、交叉、錯綜……つまり、未来の結果が、現在、あるいは過去に顕現するようなこと……も、宇宙では、ままあることだ。

 白銀の猫も、わたしと同様、渦を巻いていた。わたしたちは、互いに互いを求めていた。互いに互いから眼を反らせず、追いかけ合うようにして、さらに渦を巻いた。
 強い衝迫だった。どこからか、とめどなく湧出する、おのれを超えた意志だった。

 白銀の猫と闇色の猫の描く渦は、さながら、太陰太極図のようだった。

 次に気がつくと、雲のなかのような白い平原に、ぽつりと立っていた。上空は宇宙の闇だった。星々が無数に瞬いていた。

 渦になって、白銀の猫と融け合ったはずだったが、わたしはなお、闇色の猫だった。この先もわたしは、たった一人で旅をする孤独な猫なのかと、すこし戸惑った。

 この星は、どこまでも白い雲状の平原だ、ということは、わかっていた。尻尾の先で平原に触れれば、明らかなことだった。

 もはや、さがすまでもない。天命を待つよりほかにない。

 その覚悟が肚に落ちた途端……吾の心に覚めて即座に……上方の宇宙から……天空の星々からのたよりだろうか、あるいは天の雨だろうか……ひらひらと、ひとがたの依代のような十字の光が、いくつも降りてくるのがみえた。

 わたしは、十字の光の雨に降られた。

 十字のかたちの光の雨に降られ、触れられるたび、わたしのからだは、瞬く間に、闇色から薄鈍色に変わっていった。
 毛色だけをみるなら、光の子どもたちや父猫とおなじ白銀だった。しかし、わたしに深く浸透している宇宙の闇が、内側から発光して透過するために……そう、闇も発光しているのだ……白銀ではなく、薄鈍色に光るのだった。

 わたしは……白雲からなるその星も同時に……なぜなら、わたしが癒えれば星も癒え、また、逆も然りだからである……過去への憧憬を鎮められ、未来の記憶を沈められ、明るい静けさに満ち満ちた。
 鎮静と高揚が同時にあった。

 不意に、たしかに触れるものがあった。
 真っ先に感じたのは、心、懐かしさと安堵だった。この感情の直観は何か、と思っていると、かたわらに、熱を覚えた。
 はっと振り向くと、ふたたび、あの白銀の猫が、隣に居た。わたしとおなじく、薄鈍色を帯びたすがたに変化していた。とはいえ、わたしたちが、白銀の猫と闇色の猫であることに変わりはなかった。
 わたしたちは、身を寄せ合い、微笑み合った。直観と熱の正体がわかり、懐かしさと安堵は、より深まり、沁み入った。

 白銀の猫は、おもむろに、ガラス玉ようなプリズムの珠玉を、わたしへと差し出した。
 それは、虹色の眼球だった。

 そう、わたしの元の眼球は、闇のなかで退化し、萎縮しており、わたしは、いわゆる視力を、すっかり失っていた。第三の眼でみていたため、みえないということはなかったが、両眼は失している状態だった。ゆえに、新たな眼球を与えられるのは、この上ないギフトだった。

 虹色の眼球が、眼孔におさめられたとき……
 見えたのは、視えたのは、観えたのは、みえたのは……
 壮麗なる荘厳だった。

 ありとあらゆるすべてが、水晶のさざれ石ように、ありとあらゆる方向から光をすくい、きらきらと、瞬くように輝いていた。

 かつて見た色彩の横溢どころではない。

 あらゆる色彩と〈とき〉とを経て結晶した宝石が、さらに純度を高めて透明化し、なおかつ互いに共鳴し合って、燦めいていた。
 そのさまは、言葉では、「至上の喜び」や「歓喜」、「喝采」としか言いあらわせない何かだった。

 祝福は、恩寵は、肯定は、調和は……
 いまのいまにも在ることが、眼前に、まざまざと観じられた。

 そうして、わたしは、〈しるし〉を、いたるところにみているのだった。

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