ケイ

また殴られるのか、と思った。
殴られるときのイメージが、瞬時に湧いた。

まず、衝撃と痛みで、意識が飛ぶ。
涙は、心というよりは、身体反応。
鮮血の流血は、汚いと罵られる。

その後には、紫の打撲痕。
風が吹いても痛む。
魂は、じりじりと削られる。

しかし、そのとき、わたしは身構えなかった。
殴るなら殴ればいいと、むしろ身を投げ出した。
丸腰のまま、すっくと立った。
それもまた、相手を逆なでしたらしい。
当然、ぼこぼこに殴られた。
血がにじむどころか、血を吐くまで、顔も腹も蹴られた。

おぼろげながら意識が戻り、よろめきながら立ち上がると、殴った男と、止めに入った店長が、わたしを呆然と見つめていた。

このクズども、何だってんだ。

あとで聞けば、立てるとは思わず、驚いたとのこと。
後光が射して見えたとも聞いた。
が、鼻で笑うだけだ。

後輩たちに助けられたのだ。
彼女たちは、身を挺して、砦になって、わたしを幾重にも囲んでくれた。

事が収束すると、店長が、ノコノコやってきた。
遅い、遅い、遅い。
「若葉ちゃん、大変だったね」
相変わらず、ヘラヘラ、ニヤニヤしている。

わたしはボクサーではないし、サンドバッグでもない。
でも、時折、そうさせられてしまう。
望むはずはないのに、買って出るふしすらある。
逃れる手立てはないのか。
暴力は人間の本能なのか。

「こうなる前に止めるか、殴るような客を客にするな」
と思う。
でも、黙っている。
何を言っても仕方がない。

店長は、「圭」と呼ばれている。
しかし、本当のところはわからない。
わたしの「若葉」だって、源氏名だ。
何もできない新人時代、若葉マークの意味で、揶揄もこめて、若葉と呼ばれるようになった。

もはや枯葉だが、誰もそれは言わない。
圭だけが、「若葉ちゃん、若くてきれいなのに、いいにおいがしない」と、それとなく、あけすけに言う。

(年増まで引っ張るのはお前だろ。きれいなのは知っている。きれいと思うなら、汚すなよ)と思う。
もちろん言わないし、一瞥で黙らせる。

しかし、圭は、やたらと、においを気にする。

わたしは、嗅覚が鈍ったのか、ひとの嘔吐にもつられない。
えずくことなく、処理できる。
ある意味では特性である。

しかし、嘔吐も流血もあるのに、なぜ、ここにいるのか、わからない。

いつだったか、恨みを募らせた彩葉(いろは)さんがブチギレて、客を襲撃して、目潰ししたことがあった。
自爪を伸ばして、ネイルのレジンで補強して、凶器にしたのだった。
暴力は苦手だが、正直、爽快だった。

反撃する相手に噛みつかれても手を緩めず、互いに流血祭りになった。
壮絶なデスマッチだった。

たぶん、双方、もう生きていないと思う。
社会的に、というか、生命的にも。
当時、わたしも圭も駆けつけたけれど、止めなかったし、加勢もしなかった。
呆然と見つめた。

ただ、その後の、血と吐瀉物、汚物の処理は、淡々とした。
浴室だから、流せばよいだけではあるのに、においだけは消えなかった。

圭は、そのにおいから、いまだに逃れられないのだ。

一方、わたしは、においには、すぐ慣れた。
前に修羅があろうと、次には通常に戻る、というか戻す。
もう、わたしは、五感も、頭も、心も、とうにイカれているのだ。
そのことはわかっているが、治しようがない、どうしようもない、飛ぶしかない。

圭も殴られたのか、左眉の上に、血腫ができていた。
鏡を見ながら、おっかなびっくりな様子で触れては大袈裟に痛がって、鬱陶しい。

ある意味では、彼は同士だ、とも思う。
しかし、違う。
女と男では違う、現場と管理職では違う、大いに違う。
怪我をして痛がる圭に対して、少しだけ「ざまあみろ。たまには仕事しろ」と思う。

葉々(ようよう)が、杖をついて、出勤してきた。

「若葉さん、ごめんなさい、怪我をしました」と、血の気のない顔で、力なく笑っている。

彼女には、健康保険証がない。
この国では、国民とされていない。
基本的に、医者には、かかれない。

しかし、一瞥だけでも、ただの怪我ではなかった。
左足が、パンパンに腫れ、紫と橙の斑色だった。
語弊を恐れずに言うなら、モンスターのような、おぞましさだった。

「足、ひどい怪我」
「わたし、汚い?くさい?働けない?でも、働きたい、働かないと」
「汚くない、くさくない。だいたい、こんなところで働いちゃだめなんだよ。ここは掃き溜めなんだから」

「ほかにない」
葉々は、うなだれた。
口も爛れていた。
彼女には、確か、病気のお母さんもいる、愛する身内がいる、胸が痛かった。

そう、ほかにない。

わたしは、そのときの有り金すべてと、ふんだくった圭の財布の中身を、葉々に渡した。
圭は、この期に及んでも文句と泣き言を言ったが、蹴り倒した。

「葉々、いま、これしかない。これで、少し休める?」
葉々は、力なく首を振った。
が、金はすべて手に握らせた。

が、葉々は、右手も痺れて萎えていた。
仕方なく、ワンピースの小さなポケットに捩じ込んだ。

ただ事ではない。
彼女も、お母さんも、もう長くない、と察した。

葉々は、裸足で靴も履いていなかった。
どうやってここまで来たのだろう。
左右で、まるで大きさの違ってしまった足を洗ってやり、あり合わせの靴下とスニーカーを履かせてやると、葉々は、「この醜い足に触れてくれたのは、若葉さんだけ。みんな怖がる」と泣いた。

もらい泣きしそうだったが、こらえて送り出した。
自分もひどいなりだから、後輩の葉月に、最寄り駅まで、葉々の付き添いを頼んだが、報告は聞かなかった。

圭が言った。
「おまえさ、殴られるために頬を差し出したり、病人の足を洗ったりさ、イエスかよ」
「は?」
「イエス・キリストだよ、知らねぇの?」
「知らない。ここには、神も仏もないでしょう?イエス・キリストなんて、バカじゃないの」

「おれさ、11月11日生まれだから、圭なんだ。十一と十一で、圭っていう字になるだろう?士と士で、さむらいと思ってきたけれど、違うよな。用心棒もできない。土と土の、圭なんだと思う」

圭は、虚空に指で「圭」を描きながら、得意気に続ける。
「十字架づくしでしょ、おれの名前。イエス・キリストみたいでしょ」

イエス・キリストの姿など、このヘラヘラした優男からは微塵も見出せない。

「本名じゃないでしょう?」

「いや、本名なの。戸籍上も、おれ、圭なの。誕生日しかわからんけど、誕生日はマジらしいから。
でも、同じケイなら、慶びの慶とか、慧眼の慧とかにしてほしかったと思うけど、誕生日上、仕方ないよな」
と、薄くなった財布から、国民健康保険証を取り出して、ひらひらさせながら言う。
葉々にはない、保険証。
いちいち、ムカつく。

しかし、圭の生い立ちの片鱗を、初めて聴いた、初めて知った。

とはいえ、圭は、少し深刻ぶった途端に、軽口を叩く。
「若葉も、もう若くないんだし」

でも、いつになく真剣でもある。
「そろそろ土へ還らないか?」
「は?わたしが死ねば、みんな死ぬよ」
「死ねばいいじゃん、いつかは必ず死ぬんだし、誰もが致死率100%だよ」

圭の「土へ還らないか?」という問いかけに、
「いやだ」と言えば、死ぬまで、この地獄が続く。
「いいよ」と言えば、遠からず、みんな死ぬ。

死ぬまで、死に抗って、這うように生きるだけ。

最期に、圭が、ぼろぼろなレンタカーで連れ出して見せてくれたのは、一面、黄金色の田んぼだった。
稲穂が波打っていた。
雲の影が落ちていた。

「わー、コメだー、いいにおいがする、風がいいにおい」
と、圭は、無邪気にはしゃいでいた。

確かに、魂をも洗うような、清々しい風だった。
はからずも、涙がこぼれていた。
土へ還るとしても、この風に風葬されたい、されるのだ、と思った。

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