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ひかりの鳥

ひかりの鳥を、目で見たひとは、ひとりもいません。
なぜなら、ひかりの鳥は、光であり、光のなかを飛翔しているからです。
でも、目を瞑り、心の眼をひらくなら、みえてくるかもしれません。

ひかりの鳥は、光ですから、透明です。
透明なのに、ひときわ澄んでゆくばかりです。
しかし、そうあるからこそ、軽やかに羽ばたくことができるのです。
ひかりの鳥であることができるのです。

透明が、さらに透明になるさまは、目の覚めるような驚きです。
とはいえ、透きとおるばかりでも、ひかりの鳥の存在が、稀薄になることはありません。
かえって、ありありとした存在になるのです。

ある一羽のひかりの鳥のお話をしましょう。

青天の霹靂、雷か星が落ちたかのようでした。

あるとき、ひかりの鳥は、突然、空から急降下し、みずうみへ身を投じてしまいました。
真っ逆さまに落ちてゆき、その速さと烈しさは、稲妻か流星かと、見紛うほどでした。

いいえ、これまで、稲妻や流星と思ってきたものも、じつは、ひかりの鳥の降下だったのかもしれません。
あるいは、それらと、ひかりの鳥は、ひとつのおなじものなのかもしれません。
けれども、いまは、そのことは、問わないでおきましょう。

しかし、たしかに、一条の垂直の光線は、ひかりの鳥の飛跡でした。
ひかりの鳥は、みずから、みずうみへ身を賭したのです。

みずうみに落ちた、ひかりの鳥の光は、消え入り、ちいさくなりました。
それでも、不可思議にも、〈輝き〉は、より、いっそうましたのです。
みずうみの水が、ひかりの鳥の光に驚き、喜び、その光を反射し合い、伝え合ったからです。

ひかりの鳥が、あまりに速く飛びこんだため、はじめ、みずうみは、なにが起きたかわからずに、静けさをたたえたまま、しんとしてしました。
飛びこんだひかりの鳥が、そこらじゅうの音を、みずうみへ、共連れにしたようでもありました。

ひかりの鳥が飛びこんだことによる、みずうみの負った裂傷は、ほんのわずかでしたが、その揺らぎは、次第に、ひたひたと伝わりました。
波紋が、同心円状に拡がるにつれ、ひかりの鳥の思いも伝わっていきました。
そうして、みずうみ全体が、目を瞠るような驚きと輝きに満ちたのです。

ひかりの鳥は、どうやら、世界の鍵になろうとしたのです。

鍵とは、扉を開く鍵であり、謎を解く鍵であり、また、祈りを綴じる箱の鍵でもあります。

ひかりの鳥は、これまでもずっと、
どこかにあるはずの鍵……
手にしてもいなければ失ったこともない鍵……
を、いつもいつでも探し続けていました。
どこにも見つけられず、途方にくれる日々でした。
憧れが切に迫って、思わず涙することもありました。

しかし、あるとき、ふと、夢のように、みたのです。
それは、
「じぶん自身が鍵であり、扉とも思えない扉の前に立つだけで、扉が次々と開いていく」
という予感でした。

ひかりの鳥は、
「わたし自身が鍵であり、鍵になれば良いのだ」
と思いました。

「鍵穴と鍵が合うとき、扉はひらき、鍵はなくなり、扉もなくなり、風が行き来し、内と外は一つになるだろう」
「扉をひらき、わたし自身を識るのなら、世界も拡がり、深まるだろう」と。

ゆえに、ひかりの鳥は、一つの扉であるみずうみへ、みずから飛びこんだのです。

みずうみが扉であるのは、水面が世界を映す水鏡であり、水の粒子たちがあらゆる記憶の記憶体であるからです。
向き合えば……
飛びこめば……
開かれ、繙かれるのです。

みずうみは、扉であり、かがみであり、水をたたえるうつわでもあります。
水そのものも、揺籃であり、うつわです。
水の戻りである涙もまた、うつわです。
ひとは、多くはかなしみに、あるときには喜びに涙を流しますが、涙が、それらの思いを受けとめているから、流れるのです。

ひかりの鳥を享けたみずうみは、
ひかりの鳥の水の戻りを……
つまり涙を……
識りました。
かなしみも、苦しみも、怒りも、孤独も、喜びも識りました。
それらの思い、すべて光でした。

水といううつわに享けられた、ひかりの鳥もまた、一身に光を担う、光のうつわだったのでしょう。

さて、世界の鍵になろうとしたひかりの鳥の、続きのお話しをしましょう。

世界は、じつは、無数の大切な鍵ばかりです。

無造作に散らばる多数の小石のなかに、ある一つの小石が置かれるだけで、
たちまちに生じる調和を……
もはや、そうでしかありえない均衡を……
想像してみてください。
その小石こそ、世界を解く鍵なのです。
いえ、むしろ、鍵でないものなど、ないのです。
いかなるものも、大切な鍵なのです。
すべてはあってあるものです。

みずうみを裂くようなひかりの鳥は、みずから、そういう小石のように、
かけがえのない……
どれ一つとしておなじもののない……
鍵となり、みずうみに、さらなる調和と均衡をもたらしました。
そして、ひとつの世界をひらきました。

ひかりの鳥の予感のとおり、「扉をひらき、わたし自身を識る」のではありましたが、不思議なことに、どこまでも、どこまでも、識るのは、〈わたし〉なのでした。

ひかりの鳥は、水のうつわに受けられ、照り映えの水面の光に還るようにもみえました。
けれども、同時に、水鏡によって反転し、みずから、おのれの光を享けたのです。
そう、みずうみは、かがみでも、うつわでもあるからです。

矢のように射すおのれの光を、受けるのもおのれ自身なのでした。
じぶんの光を受けながら、深く深くへ沈むのです。
ひかりの鳥は、みなそこへ沈むごとに、記憶を「全く」逆に辿り、〈われ〉ではなく、〈われわれ〉の思いの重みを引き受けました。
そして、これまで、知りながらも、知ることのなかったことを識るのでした。
たとえば、識るのは、この星の深く深い青色や、真の光や闇でした。
それらは、痛みであり悼みであり、澱であり祈りでもあるものでした。

ひかりの鳥の落下は、すなわち深淵への飛翔でもありました。

そうして、光のないみなそこにこそ、光は睡ります。

みなそこの光は思いました。
「痛みを享けることができてよかった」と。
「空のわたしは、鍵であり、剣的な我だった。
水のわたしは、扉であり、かがみであり、聖杯的な吾なのだ。
吾の心に覚めることが覚悟だ」と。
その思いは、覚悟して、みずから深淵へ飛びこんだ〈我〉〈吾〉を慰めました。
福音さえも、みずからの深淵にありました。
おのずからありました。

みなそこの光は、痛みを享け、慰みを受け、鎮まり、澄んでいきました。
澄みきった光は、その純粋さゆえ、混じり合わず、濁ることはありません。
途方もなく透きとおります。

みなそこの光は、すべて、すべてを映し合い、浸透し、融け合い、すべて、すべてが、すべて、おのれなのでした。

みなそこの光は、いつのまにか、ひとりでに歌っていました。
そう、光にとっての言葉とは歌なのです。

かがみであり うつわであるもの
みずから水なる
わたしはあなた あなたはわたし
ゆえにこそ
ありありと透きとおる

そうして、水へ戻り揺られていると、どこからか、

もう一度生まれておいで
もう一度生んであげる

と、呼応するような声が聴こえました。

「わたしは、ふたたびみたび、いや何度でも、わたしになるのか。
そうして、さらに、わたしへ還ってゆくのか」と、
みなそこの光……
ひかりの鳥……
は、みなそこのまどろみのなか、思いました。

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