
緑の騎士
そのひとは、大きなひとだった。
背が高く、しっかりとした体格だった。
胸板厚く、力強い腕だった。
肩まである亜麻色の髪が艶めいていた。
騎士、だろうか。
わたしは、ちいさく、ぼろぼろだった。
軽く脆く、触れられたら壊れそうなくらい疲弊していた。
心身共、ぶるぶると震えていた。
そのひとは、その大きくあたたかな手で、わたしの手を引き、野草畑に連れてきた。
そこは、禁足地だったかもしれない。
畑は、ゆるやかではあるが他からは仕切られ、入口となる、草で編んだ背の低い扉には、鍵がかけられているようだった。
門番だろうか、連れだろうか。
姿は見えなかったけれど、彼は手を上げ、誰かを制するか、誰かに合図するかのような動きをした。
とはいえ、畑には、わたしと彼の二人しかいなかった。
野草畑を歩いていき、彼は、一本の背の高い草の前で立ち止まった。
彼は、その草を指さして言った。
「この草を切ってごらん」
背の高いその草は、内から静かに発光するように見えた。
緑色の影が揺らぐようだった。
わたしは、びくびくして、おどおどとしたままだったけれど、言われたとおり、草を刈るように手で摘んだ。
しかし、摘んだそばから、次から次へ、緑がのびてきた。
尽きることがなかった。
驚いて顔を上げると、彼は、穏やかに微笑んでいた。
それから彼は、微笑んだまま、(まねしてごらん)という目配せをした。
わたしは、彼の手のまねをして、手をチョキにして、草を切るふりをした。
指のはさみでは、もちろん切れない。
「いいかい。これが、そなたと私だ」
(ん?どういうこと?)
と思いつつ、はたと思いついたひらめきを、ちいさくつぶやいた。
「切っても切れない?」
「そう」
彼は、うなずいた。
わたしは、ふいに、ぼろぼろ泣いた。
そのひととと会えたことが嬉しくて。
嬉しいと同時に、かたじけない思いも湧いた。
そして、すぐ来る別れが、怖かった。
わたしは、彼の胸を借りて泣いた。
首にすがりついて泣いた。
離したくなかった。
彼は力強く、でも、やさしく、抱きしめてくれた。
事もないように、わたしの体は宙に浮いていた。
地面から、足が離れていた。
わたしは、胸のうちを明かした。
「これまで、素直になれずに、多くの人を傷つけてきました」
「見ていた。大丈夫。私がいる。色とりどりの彩りがある。そなたは《赤》を学びなさい」
「はい」
言葉の意味は、わからなかった。
でも、嬉しかった。
大切に思えた。
それからわたしは、もう一つの不安を口にした。
「みながしあわせになるまで、わたしもしあわせにはなれない気がします。偽善なのはわかっています、でも、そう思えてなりません」
「わかるよ。大丈夫。そなたも世界の一部だ。そなたから、しあわせになればいい。しあわせのため、ここにあるんだ」
「ほんとうの、しあわせが、どんなものか、わからないんです」
「では、そなたはいま、なぜ泣いているのか」
「あなたと会えて、嬉しいからです。それから……あなたと別れることが、悲しいからです」
「しあわせとは、このことだよ。めぐりあわせ、めぐりあうこと。私たちが共にあること。そなたは、十分に素直だ。深呼吸してごらん」
わたしは、ちいさく息をつき、それから大きく息を吸いこんだ。
彼の腕のなかにいたけれど、呼吸は全然苦しくなかった。
むしろ、深く大きく呼吸ができた。
清々しい風を、胸いっぱい吸いこむようだった。
《満天の星空と光る緑色の大地の映るガラス玉》
のイメージが、ふと、よぎった。
蒼と碧が、雫のように円く閉じていた。
それは地球のようだと思った。
一瞬のことだった。
わたしは、ゆっくりと息を吐いた。
彼は、そのまま、しばらく抱きしめてくれた。
わたしが落ちつくのがわかると、静かに降ろしてくれた。
「さあ、行くよ」
野草畑を歩きながら、彼はもう一つ話をしてくれた。
「そなたは、植物たちの思いを吸いこんだ。それは、そなたの滋養となった。そなたの思いも、おなじように、めぐるのだ。懐いたものを抱えるな。どんな思いにも、まちがいはない。放てば、それは、光にもなる」
「思いの発露が突破口……」
わたしはふと呟いた。
「でも、打ち明けて、担わせて、要らぬ傷を増やすだけのようにも思います」
「私は、そなたに秘密を分けた。それを、そなたはどう思う?」
「しあわせ、かもしれません。熱、を感じます」
彼は変わらず微笑んでいた。
このままずっと、手をつないでいてほしかった。
しかし、わたしたちは畑の際で別れた。
気がつくと、さりげないうちに、彼はもういなかった。
振り向くと畑もなかった。
わたしは心もとなく、不安でいっぱいだった。
抱きしめてもらった腕を、胸を、思い出して励みにした。
泣きそうになりながら、忘れたくないと、つよく思った。
「切っても切れない。そなたも世界の一部。しあわせとは私たちが共にあること。懐いたものを抱えるな」
彼の伝えてくれたことを、一つずつ反芻する。
聡明に澄んだ眼を、たくましい腕を、見上げるほどの背の高さを、ありありと思い出す。
思わず目を上げる。
鮮やかな濃紺色の空が広がる。
彼のまなざしが、どこかにあるように思える。
探してしまうわたしをも見ている、と思える。
あなたかなたの、あなたの意識で生きてみる。
彼は、緑の騎士(ナイト)のようだったけれど、天使(ライト)だったのかなと、ふと思った。