裏切り者のきせき
わたしは、裏切り者のユダである。
イスカリオテのユダも同然なのである。
それでも、師は言ったのだ。
「しようとしていることを、今すぐするがよい」と。(ヨハネによる福音書 13:27)
しかし、同時に、こうも言われた。
「その人は生まれなかった方が、彼のためによかったであろう」と。(マタイによる福音書 26:24)
わたしは、生まれなければ良かった。
己に巣食う悪ゆえ、最愛のひとをも裏切るのだから。
裏切り続けてきたのだから。
そうして、挙げ句には、首を吊って死ぬか、あるいは飛び降りて無惨に死ぬのだ。
惨めな最期だ。
そして、死んでもなお、後ろ指を指され続ける。
やはり、生まれなければ良かった。
ユダとは、ヘブライ語で、「ヤハウェに感謝する」という意味であるという。
感謝はある。それは、ほんとうに。
わたしは裏切り者であり、大嘘つきだが、この、この上ない感謝には、微塵の嘘もない。
ひととして生まれた者として、ひとかけらの真実はある。
∞
粉々に砕かれたわたしのたましいは、いま、微塵光となり、きらめいている。
裁かれて、砕かれて、ようやく、美しいものになれるのかもしれない。
わたしのたましいは、もはや跡形もなく、生まれ変わることもなく、輪廻から外れるだろう。
良いのだ、生まれなければ良かったのだから。
生まれたことが、あの方と出会えたことが、奇跡だった。
あの方の起こした奇跡だった。
わたしは、道を化かす道化だ。
道そのものである師を、泣きながら裏切り、軌跡を汚し、鬼籍を膳立てた。
笑え。嗤え。わたしを嗤え。
どうか、せめて、嗤ってはくれないか。