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エンゼルメイク

そのひとをきれいだと思ったのは、たった一度、そのときだけだった。
訃報を聞き、慌てて駆けつけ、棺を覗きこみ、エンゼルメイクの施された、その顔を見たとき。

死に顔にしか、そのひとの良さを見つけられなかったわたしは、あまりに非情な人間である。
いまなお、苦しさを覚える。

しかし、そのひとは、実際、夜叉のようなひとだったのだ。
突然激昂して皿が飛んできたときや、前ぶれも理由もなく怒号をまくし立てられたときには、鬼の角が生えているように見えたこともあった。

何十年も、おなじ恨みのうちに生き、なにものかの祟りをひどく恐れていた、そのひと。
生きるひとの噂と、死んだひとの呪いに苛まれていた、そのひと。
頑なであり、烈しいひとだった。

わたしも、怒りに我を忘れたあるとき、そのひとの血が、じぶんにも流れていることを自覚して、ゾッとした。
おののいて、しばらく震えが止まらなかった。

そのひとを亡くして、悲しいかな、悲しいとも、寂しいとも、思わなかった。
未だに、素直に偲び、畏むこともできない。

ひとを亡くして、つつましい謹み、うつくしい悲しみのうちにあるひとを、羨ましくすら思う。
純粋に、いとおしさだけで亡きひとを悼み、悲しめるひとに、憧れを覚えるのだ。

生と死という隔たりを超えた、愛するひとと、愛されるひとの、不可見のむつみ合いがある。
しかし、そのことに、心を温めるのと同時に、じぶんとそのひとには起こりえない、と切なくなる。

死後、荼毘にふされるまでの数日間、そのひとときは、そのひとは、ほんとうにきれいだった。
澄まし顔の、きれいな顔をしていた。
すくなくとも、わたしには、きれいにみえた。
そのひとの毛嫌いしていた化粧を施されて。
旅立ちに際し、整えられて。

生きていたときには、およそ見たこともない、よそよそしい顔でもあった。

もし、わたしがそのひとに紅を引いていたら、妖怪の口裂け女のような線を引いたかもしれない、と思う。
そのひとが、生前にも、死後にもなお、近しい者を苦しめることなど、なにも知らない葬儀屋さんが……
あるいは察していたのかもしれないけれど……
死者への敬意と、淡々としたプロ意識を持って、そのひとに描いてくれた、そのひとの顔。

きれいだった。
エンゼルにしてもらえた。
よそ行きにしてもらえた。

エンゼルメイク、という言葉を教えてくれたのは、ベテラン看護師の友人である。

死化粧、と言うより慰みにみちた、すてきな言葉だと思った。

彼女に訊かれた。
「あなたなら、エンゼルメイク、どんな顔にしてほしい?直感でこたえて」と。
「すがすがしい」と、わたしはパッと、思いついたとおりにこたえた。

彼女は、すかさず言った。
「それが、あなたの生きたい在りかたなのね」と。
「あなたらしいわね」とも。
じぶんでも、「あぁ、そうかもしれない」と思った。

そして、亡きそのひとのことも思ったのだ。
そのひとは、どう生きたかったのだろう、そのとおりに在れたのだろうか……
そのひとのエンゼルメイクは、そのひとの最期の思いの表現に適っていたのだろうか、と。

知る由もない。
知る由もないけれど、そのひとの、生前見たこともなかった穏やかな顔を見て、わたしには、とてもひとことでは尽くせない、万感の安堵があった。

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