己自身の文筆者たれ
「己自身の文筆者たれ」と師は言った。私は書き続けていた。なにをか。やはり己自身をだ。自己陶酔とも言えるだろう、不躾だとも云われるだろう。それでも私にとっては、己にとどまらず己自身へ向かう、そして、もはやまみえぬ、いまだまみえぬひとと対話する大切な手立て。それが書くという営為だった。
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私は師に拾われたのだった。
それまで勤めていた屋敷には、嘘と欺瞞と揶揄とがひしめいていた。出し抜こうとする競争心や敵対心、他を踏みにじり蹴落とそうとする横暴粗暴、それを危惧警戒しての疑心暗鬼がはびこっていた。足を引っ張り合うのが常で、向学心や向上心、共同や協同の精神は、欠片もみられなくなっていた。
あるとき、これらへの嫌気に耐えられず、私は「おかしい、まちがっている」と啖呵を切った。私も血の気の多い無鉄砲な若者だった。自ら見切りをつけたのではあるが、とても居づらく居られず、半ば追い出されるようにして屋敷を出た。
怒り任せに土を蹴りずんずん歩いた。ゆくあてもないのに、いや、ゆくあてのないゆえに、昼夜ひたすら歩き続けた。若さ任せに足早だったが、疲れは微塵も感じなかった。
緑のもえる頃だった。新緑が目にまぶしく、なにかを語ろうとするようだったが、その声を聴こうと立ち止まりかけたとき、己の怒りに揺り戻され駆り立てられ、足は速度を増して歩を重ねた。
道標の一里塚で、一息ついて腰を下ろしていたとき師に出会った。
「ついていらっしゃい」と師はこともなく言った。不思議となんの抵抗も感じなかった。それまで沸沸としていた怒りも消えていた。心がしんと平静になっていた。
師の庵は棚田の村のてっぺんにあった。質素ではあるが所々に心の尽くされたあとのみえる造りだった。私はその一隅を与えられた。
師の庵は、村人たちの寄合に使われることもあり、時には宴会も催された。師に教えを仰ぎに来る村人も少なくなかった。集う幼子たちへ師が読み書きそろばんを教えることもあった。私は師の助手になり、ほどなくして子どもたちに教える役は私の仕事となった。
屋敷ではいわば役人の勤めをしていた。私は書にも算術にも難はなかった。一方で村人たちは、己の名すら書けない者が多かった。字を見て、これはなんの図か絵かと訊ねる者もいた。
私は週に幾日か、それは大抵雨か忌避の日だったが、寺子屋擬きの場を持った。幼子たちは無垢な分まっすぐにたどたどしく字を書いた。自分の名を書けるようになると真っ先に母親のもとへ駆けていった。老人たちの伝え話は、聞き書きをし、子どもたちのよい読みものになった。
寺子屋擬きの時間以外の大半は、村人たちと共に村人たちの田畑で働いた。師をならって黙々と働いた。師と同様に対価をあてがわれ生活の糧とした。
村人たちは、余所者には初めこそよそよそしかったが、師の見込んだ若者として一目を置き、私の黙して汗を流す働きぶりからも、少しずつ胸襟を開いてくれた。
私には既に怒りはなかった。心にもえるもの、心の熱は感じていたが、その対象が、競争への嫌悪、虚栄への失望ではなく、師と村人たちへの敬意と感謝、親しみへと変わっていた。
置かれる場が変われば、こうも変わるのかと驚いた。自分でも自分の変化を不思議に、しかし平静にみていた。この場こそ参画したい共同体だった。微力であろうとも役に立ちたいと願い、その願いが叶えられた。
私は同年代の百姓と親しくなった。彼は浅黒く日に焼け、開けっ広げな性格で、仕事も豪快に力強く、声が大きく、よく笑った。私は農作業中「書生さんはなまっ白く、へっぺり腰だ」と、よくからかわれた。“学者先生”と可笑しく云われることもあった。屈託のない親しみからの言葉だった。私は大いに同意し共に笑った。それでも彼は何度でも丁寧に作業の手ほどきをしてくれた。時折は“さすが学者先生、見込みがいい”と褒めてくれさえした。
私は彼と数人の村人(その内には切れ者の彼の妻もいた)に書と算術を教えた。歴史や法や経済も教えた。彼らは熱心だった。子どもに学ばせることも然り、自身も学びを強く求めていた。私同様、己をあかしてくれるものをつねに探していた。私たちは村の発展と存続をよく議論し合った。共に学び、考え、働いた。師は黙したままに、それをみていた。たまに議論が堂々巡りし、皆がすがるように見解を求めると的確にこたえてくれた。
師には日々の勤めがあった。師の庵は寺ではなかったが、経典が多くあり、師は読経し写経することを日課にしていた。私も諸々の作業を終えた夜には、それにならった。多くを学び、その学びを村人たちへ還元した。師には仏への帰依と祈念もあったと思う。それを直に聴くことはなかった。ふれることのできない深淵が師にはあった。
師は言った。「お前は己自身の文筆者たれ」と。学び、教えるよりさらに、己自身をよく観、それを書け、と。その意味は初めは全くわからなかった。それでもことあるごとに幾度も受けた言葉だった。そのためいつでも胸にあり、わからぬままでも大切に輝ける言葉でもあった。
その意味を知ったのは、師の最期に際しての折だった。師は息を引き取る間際私を呼び、なおも「お前は己を書け」と言われた。はっとした。
この偉大なひとを喪うのかと胸がふたがれる思いだった。しかし己を書くということは、このひととの尽きせぬ対話が続くことなのだ、と思った。私は師の繰り返していた言葉の意味を、そのとき知った。
師を亡くして、喪失感と孤独感、限りない悲哀に沈んだ。しかしそればかりにはとどまらなかった。書くことがあったから。私は与り享けたものを透過し、結晶させて詩を詠み、書に記し、日々亡き恩師と対話した。師を思い、師の思い出と、私自身の思いとを、猛烈に書いてしたためた。村人たちは「まるであの寡黙な大先生が語ってくださるようだ」と身を傾けるようにして読んでくれた。
師も私同様、余所からやってきたひとであったらしい。しかし誰よりも村人として生きていた感がある。私もまた余所者でありながら、初めからこの村にいたかのように、村に腰を据えていた。
師の亡きあと、私たちは学びや議論に煮詰まると、ふと、師のよく座っていたほうをみた。師ならなんと言うか、どう言ってくださるか、と。すると自ずとなんらかの緒、曙光がみえた。
村人たちは「先生は大先生によく似てきた、しかし大いに違うのは、先生はよく喋る」と評して笑った。私も一緒になって笑った。いつしか書生から先生と呼ばれるようになっていた。そのくらい齢を重ねたのだ。それでも書き尽くせない、読み了えることもない、詠み終えない思いと学びが、私にはある。私は私を知りたい、あなたをわかりたい。
私は、己自身の文筆者である。