きっとみな、彼のことが好きになる
水野春です。
リニューアル一本目です。
昨日のことになりますが、キバ完走しました。
以下ただの感想垂れ流しです。悪しからず。
概要 ※ネタバレ注意
・前説:10年前について
・所感:なぜ人は紅音也に惹かれるのか
ちなみに放映当時も観てはいましたが、終盤心が折れて最終話まで観られなかった。10年前の多感な私には少々辛い展開が多すぎたみたいです。
とはいえ当時から、挿入歌のSuper Novaが大好きでした。
改めてキバを観て、考えたことは他にもありますが、
一番心に留まったのは紅音也の存在でした。
自由に生き、自分の心に正直に真っ直ぐに生きた、ちょっとくさい言葉を選ぶ、1980年代の若者。
自らを天才と自称し、通りすがる女性皆に声を掛ける。
やることはめちゃくちゃだし、自信家だし、全然話聞いてないし、どうしようもない男。
真に天才であるのは、ヴァイオリニストとしての一面、ただそれだけ。
仮面ライダーを子供向け番組とだけ定義するのであれば、
はっきり言って、序盤の彼はそれほど教育に良くない存在なのです。笑
「紅音也に恨みを持ってる」という人がわんさか出てくる始末なのも、致し方ないなと思ってしまう。
しかし、話が進むほど、彼の本質は「どうしようもない男」ではないと、気づかされるのです。
彼は生涯、自らの心に正直に生き、音楽を愛し、彼が愛する者を愛し、守り、死んでいった。
渡がずっと悩んだ「自分の人生」、それをはじめからただ、貫き通していただけの、憎いほど真っ直ぐな存在だったのだと思います。
だから、それができない多くの凡人たちは、彼に対して「あいつはなんなんだ」と妙な視線を向ける。
……まあもちろん、その行動がすべて許されるべきだとも思いませんが。
(ヴァイオリンの演奏で金払うのは良くないし、なんなら音也は結局別の女を選んだという言い方もできるわけですし)
彼のヴァイオリンは美しいのです。
そして、彼が奏でる音楽――これには天才音也の演奏と、作中のキーワードとしてといずれの意味も含みますが――それもまた、美しいのです。
「人は皆、音楽を奏でている。俺はそれを守りたい。」
歯が浮くような台詞だ、そう思います。
でも、こんな非現実だとしか思えない言葉を、無茶なやり方で、”理性”的でないやり方で、生涯、守り通したわけです。
その美しさが、紅音也自身であり、紅音也という音楽であったのだと思います。
それは一聴のうちには、聞き馴染みのないノイズのようなものなのかもしれない。
あるいは、自らの鎖から発されるノイズによって、その音は聴き取れていないのかもしれない。
しかし登場人物たちは、紅音也という人を知るほどに、
その音楽の美しさに気付き、聞き惚れ、その人を愛するようになる。
それは、視聴者である私も同様でした。
自分を生きるということは、難しい。
それが当たり前で、私自身もそう思っています。
心の声を聞く余裕なんかない。
紅音也という人は、心に耳を澄ませることが当たり前にできるのだと思います。自らのものも、他の誰かのものも。
そして同時に、自らを生きることによって、
彼の音楽を聴くことができない誰かが、迷惑を被ることも、きっとわかっているんじゃないかな。
わかっていて、当たり前にすべてを引き受けているんじゃないか。
あるいは、そのあたりは全然わかっていなくて、ただの鈍感野郎なのかもしれません。紅音也ならそれもあり得る。掘っても掘っても、底の見えない男です、彼は。
そんなに勝たないし、なんならそれなりに負けてボロボロだし、女に殴られるし、仮面ライダーとしてわかりやすくかっこいいか?というと、そうでもないなと思うんですが。
でも、人間味と、非人間性(あるいは、ヒーロー性)を併せ持ち、
ある種の儚さと、確かさとを内包した、偶像として美しい存在だったように思います。
同時に、紅音也を、ただのヒーローとして崇めてはいけない、額に飾ってはいけない、とも思うわけだけれど。
この辺りは戦兎の危うさとも近いような気がしますね。
ビルドについても書きます。そのうち。
話は尽きないですがこの辺で。
水野春でした。ではまた。
最後に。
イクサもナックルだしグリスブリザードもナックルだし、偶然か意図的かは知らないけど、粋だな。
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