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養老孟司先生とヤマザキマリ先生

カッコ良すぎる男とカッコ良すぎる女。


見ていてつくづく幸せになるインタビュー。
世間とはズレてると各々自認されてる二人の天才。前々からお二人は何を語っても腑に落ちると感じて好きだった。当然お二人同士が好相性であるはずだ。



養老先生が語られている時ヤマザキ先生はあの色っぽいまなざしで彼を眺め、
「いいオトコでしょ?さっすが私の彼氏」とでも言いたげな風情。
逆に養老先生は、普段のインタビューなら(どうでもいいことばっか訊かれるんだよなあ)と半ばウンザリされてるが(顔と態度に出ちゃってる)、ヤマザキ先生が語られてるのを横で眺めてる時だけは
「僕の彼女、素敵でしょう?」と自慢げというかご機嫌、ご満悦。
むろんそれぞれのご家庭も素敵で世のみんなが大好きな「フリン」なんてそこにはあるわけもないが、同志と認め合ったらそこには何もなくとも匂い立つような色が立ち現れる。
なんて言ったら、世の真面目な男女は怒るのかしら?



常識を超えること、人知で理解できないことはダメなんだ、という古来からの人間社会のシステム上の決まりそのものに二人が違和感を感じているのは確かなようだ。

ヤマザキ先生のお美しさはもう、若い娘なんかとても太刀打ち出来ない。傾城というような女性のそれだ。養老先生の愛らしいような威厳も、どこぞの若い男の子たちが束になっても敵いはしまい。



メディアがどうだの戦争がどうだのでいちいち騒ぐ世界。どう生きるかだと?贅沢言うなよ。それを考えさせて貰えるだけの状況にいられるものを。そんなようなことを、お二人の語らいから想起する。


同じ過ちを何千年、何万年やってきてるのか。何故世界はニンゲン中心でなければならないのか。近しい人間模様でいちいち苦悶しては愚問を重ね、ろくに考えもしないで攻撃し合っていたり。後戻り出来ぬほどの遺恨をしばしば遺して。
きちんとメディアを疑い、解答しながらお二人は基本全て友とみなし、大切な人やものを守りながら生きているように見える。


多くの人間は歴史の果てから誤ちを犯し、勝手に悩み、悔いもなく、老いと病と死を恐れ、死ぬ。それも営為だとお二人はとうに看破してそれぞれの人生に向かい、楽しむ。恐がってなんかいない。覚悟があるから叡智がついてくるし、どんどん軽やかになる。心は雲のように広がり吸収し、慈雨をもたらす。息をするように。
こないだ誰それが何をしたとか何を言われたとか、気にしてるヒマはそう言えば私にもないわ。
明日死なないという100パーの保証書は生まれつき付いてないから。だから最低限暮らす以上のカネもモノも要らない。そうしてると必要なモノは勝手に来る。従って心配もない。
だから、同質のお話を楽しくしてくれる二人が痛快なのよ。



世の外れ者として長年生きてきた私にその言葉たちは、懐かしいせせらぎや風の音のように聞こえる。



彼らの言葉は机上の空論ではない。経験に裏打ちされている。現代社会に生きながら数万年の時空さえ軽々飛び越えて俯瞰し、ブレない。


そうしてはっきり自分の意見を持ちながら、誰かを傷つけたり断じたりなどしない。二人のキャスター/インタビュアーが気の毒に見えてくるほど、思考・体験のレベルは段違い。だからって見下したり偉くなろうともしない。同じ人間として誠実に問いに答える。愚問も多いがそれが世の代表意見ということもお二人は恐らく熟知されてのことと見た。「テレビ」なんだから仕方ない、とね。



ヘーゲルの精神現象論を思い出す。
お互いを論破することだけを目的として、自分の意見にだけは疑いを持たぬ二者は、歴史が変われば立場を変え、また同じことを繰り返してきていると。
お二人はまるでそれを中空から眺めて、どちらにもつかずただ観察している。
少し笑って。



視終えて買い物へ出た。私だけの道を行く。ねこ道、と呼んでる。田んぼや野原の中を行く、車も自転車も入れぬ私だけの秘密の小径。



金と翡翠色の蜻蛉がふと現れ、どんな戦闘機より流麗に私を導いた。
ギンヤンマだ。
久しぶりね。四十年は会ってなかった。まだ生きてたのね?
嬉しいわ。あなたは綺麗。陽に光って。

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