【小説】第8話 The nightmare is coming.

 将軍家の乳母となった福は、乳飲み子の竹千代――後の家光を腕に抱きながら、この日ある知らせを聞いていた。竹千代の産みの母である、お江が次男である国松を無事に出産したという実に祝福すべき話だった。国松は、後の忠長である。他にもお江は、その後和子を出産するなどするが、それはまだ先の話だった。

 お江は、長男である竹千代を愛してはいなかったと、頻繁に語られるがそのようなことはなかった。それを福は誰よりもよく知っている。凜とした顔立ちの麗人であるお江は、母や姉と同じくその美貌に誉れ高かったが、乱世が落ち着きを見せ始めた世にあっても、跡継ぎをもうけたことと、長男の存在にいつも心を砕いていた。

 だが、また戦の世が戻ってきたのならば。
 長男だからといって、平穏というわけではない。
 それは福もよく分かっていたし、次男の出生にもお江が歓喜の涙を流していることは分かっていた。福とて母であるから、子への愛情というのは共感するものである。

 多忙な母に会えない幼い竹千代の柔らかな髪を、福は撫でた。
 己も実子には会えないが、今、自分はこの子とともにある。
 竹千代に尽くすこと、お江の助けになること、そしてひいては将軍家に貢献すること、これが福の胸中にある動機だった。

 この日は僅かに空が曇っていて、その合間から柔らかな日差しが覗いていた。
 竹千代を休ませてから、福もまた、少しの間、微睡む。

 そしてまた、夢を見た。

 ――それは夕暮れを過ぎた頃の空をしている夢だった。

 何故夢だと分かるのか――?

 理由は一つで、行き交う人々の誰一人にも見覚えはなく、己が見知らぬ城にいたからである。ただそこが、高崎城であることだけを、福は理解していた。

「なにゆえか?」

 そこに声が響いてきた。
 不思議な夢だなと思いながら彼女が視線を向けると、そこには二十代後半になるだろう青年が座していた。彼がこの夢の中において幽閉中の身である竹千代であることを、目にした瞬間に理解した福は、夢の中であるというのに体を硬直させた。

「江戸より上意にて」

 鹿垣を結う者達は、そのまま竹千代――いいや、家光に告げた。

「我々のような下々の者には分かりませんが」

 しかし夢を見ている福は理解していた。
 これは――家光が自刃する直前の光景だ。理由は、忠長の上意を、阿部重次が重長に伝え……、そう、これはもうすぐ来たる未来・・・・・・・・の話だ。即ち、竹千代は将軍にはならない。弟が将軍となり、自刃する。

「そうか」

 家光は淡々と頷くと、その瞳にどこか狂気的な色を宿して俯き、自嘲気味に笑った。
 日はどんどん暮れていく。
 その後家光は、部屋に女房を二人呼んだ。丁度、酒を飲むのに丁度よい時間帯。

「酒を温めてきてくれないか?」

 近侍の女童を残して、頷き二人の女房が出て行く。そしてすぐに酒を持参し戻ってきた。白い陶器の酒盃を手にした家光は、それをゆっくりと二口ほど飲み込んだ。それからここのところは見せなかった、穏やかな顔をして微笑した。

「もう少し温めてきてくれないか?」

 同意し、女房達が出て行く。家光はそれから残った一人に、告げた。

「ああ、悪いのだが、酒の肴も持ってきて欲しい。伝えてきてはくれぬか?」

 頷き女童も席を立った。
 見送った家光は、空を見上げて、暗めに見える飛ぶ鳥を見た。

「あれは鷹ではないだろうが、なぁ。ついぞ鷹によい思い出はなかったな」

 ぽつりと零した彼は、喉を貫き自刃する。うつ伏せに倒れた彼の白小袖がどんどん紅く染まっていった。黒い上衣がうつ伏せになった彼の上に広がる。喪を知らしめるように。血だまりが広がるその光景に、唖然としながら見守っていた福は唇を噛んだ。

 ――何故?
 ――何があった?

 愕然とした福が手を伸ばす。竹千代が、のちに家光という名になる未来――それだけならばともかく、将軍の座を争い、薨去する? そんな未来は認めがたい。

 指先までもが冷たくなり、福は震え始めた。

「絶対にそんなことにはさせない!」

 そして、自分の叫び声で目を覚ました。すると傍らで竹千代が眠っていた。
 背筋が寒くなる。
 自分は、竹千代の母ではない。だが、愛しているのは変わらない。だが、それだけが理由ではなかった。ああ、また、未来の夢・・・・だと悟ったからだ。また、だ。また、そう、また自分は、己が敗者になる夢・・・・・・・を見たのである。

「けれど、今の私は知っている。必ず、変えてみせる」

 福は呟きながら、脳裏に天海の姿を想起していた。
 今見た夢も、彼にならば、その意味が読み解けるのだろうか?
 そんなことを考えながら、びっしりと汗をかいていた彼女は、黒い髪を肌に張り付かせながら、荒くなった呼吸を落ち着けるべく深呼吸する。

「私は、敗者にはならない」

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