【小説】第6話 引っ越し蕎麦
香澄はその頃、家にあった玉ねぎと人参、三つ葉で、かき揚げを作っていた。考成がリビングの扉を開けて戻ると、アイランドキッチンの向こうで、揚げ物をしている香澄が見えた。
綺麗な形で、きつね色に揚がったかき揚げを、香澄は油を取るシートを敷いたトレーの上に置いた。その傍らでは、大きな鍋でお湯を沸騰させている。そばには、乾燥蕎麦の袋がある。これは、常備してある品だ。作るのが面倒な時、一人だと香澄はよく蕎麦を食している。
その後時間を計って蕎麦を茹でた香澄は、三つのどんぶり、その内一つは小さめの子供用の品に、蕎麦とつゆを入れ、かき揚げをのせた。
考成は驚いたように、香澄の背を見ながら、首元のネクタイを緩めている。
「ご飯です!」
香澄がお盆にどんぶりを載せて、リビングへとやってきた。そしてローテーブルの上に、蕎麦を置く。
「ご飯……」
それをまじまじと見た考成は、目を丸くした。
驚愕したように、どんぶりの中身を見ている。
「俺もいいのか?」
「何か買ってあるんですか?」
「いや……そういうわけではないが……」
実際には公安から配布されている、特殊な栄養補助食品は部屋にある。だが味気ないあのクッキーが、考成は正直あまり好きではない。とはいえ、食べられて、腹を満たせればなんでも良かったので、本日はそれを食す予定だった。けれど、どんぶりの中身を見て、空腹感を覚える。そこには、非常に美味しそうなかき揚げ蕎麦があったからだ。
「……かき揚げは、家で作れるのか? 買ってあったわけではないよな? 揚げている音がしたしな……」
「へ?」
「どうやって作るんだ? 俺はスーパーに売っているかき揚げしか食べたことがない」
顎に手を添え、考成がまじまじとかき揚げ蕎麦を見ている。
「香澄ちゃんは料理がうまいの」
するとニコニコしながら、景が述べた。景は同年代の子供達よりも、語彙が多く言葉が達者だ。その後景はソファから絨毯の上におり、そこに敷いてあるラグの上の座布団に腰を下ろした。景はその方が、食べやすいらしい。
三歳なのに景は、箸を綺麗に持っている。
「景、いただきますは?」
香澄の声に、息を呑んで目を丸くし、一度箸を置いてから、景が手を合わせる。
「考成さんもどうぞ」
「ああ、悪いな。正直、作ってもらえるとは思っていなかった」
「だってこれから一緒に暮らすんでしょう? 料理だってお掃除だって買い物だってゴミ出しだって洗濯だって、どうするか決めなきゃですよ?」
当然のように香澄の語る、現実的な問題や取り決めなければならない事項に、考成は沈黙した。防衛機能に関しては長けている考成だが、生活能力となると香澄に完敗としか言えない。
「……食材費や、水道光熱費は、俺が出す。だから、家事全般は頼めないか?」
「ゴミ捨てくらいやって下さいよ」
「ゴミをまとめてくれるなら、集積所に持っていく程度なら可能だ……」
「はぁ……先が思いやられますね。まとめるのはやります」
大きく溜息をついた香澄から、考成は顔を背けた。ばつが悪そうに、横の壁を見ている。そこには、モナリザの模写が二つ飾られていた。
「蕎麦、のびちゃうんで食べましょう」
「ああ。いただきます」
こうして食事が始まった。かき揚げを一口食べた考成は、瞠目した。あまりにも美味だったからである。揚げたてのかき揚げが、これほど美味しいとは、考成は知らなかった。
考成の両親と四人の祖父母は、皆警察官や自衛官である。考成も、最初は自衛隊に入り、その後警察に出向し、公安の人間になった。幼少時から家族は不在が多く、料理は基本的に買い食いだった。考成自身も料理に興味は無い。自衛隊時代に掃除はたたき込まれたので、実際には出来るが、それも好きではないので言わなかった。考成は、やりたくない事柄は、比較的避ける。やらなくていい場合はやらない。
「一応、引っ越し蕎麦ですからね」
香澄の声に、考成は顔を上げる。
「引っ越し蕎麦……」
確かにそうだと、考成は納得したが、このように自分を迎え入れられるとは考えてもいなかったものだから、内心で驚いた。
「ところで、クロは何を食べるんですか?」
問いかけた香澄に、考成は現在ソファの上で丸くなっているクロへと振り返る。
「体に機械が入っていて、内臓はほとんどない。だから、俺の部屋の充電器で、充電する形式だ。餌やトイレは不要だ」
「じゅ、充電……え? ロボット……なんですか?」
「いいや、生態AI技術という、新しい科学技法があって、公安は内々にそれを利用していると言うことだ。詳細は、話せない」
「話されても理解できる気がしないんで、いいです」
曖昧に笑った香澄を見て、考成は小さく頷いた。そして、大切な話を思い出した。
「景くんは、保育園に通っているんだろう? 基本的な情報収集はしてある」
「はぁ。通ってます」
「しばらく休ませて欲しい。俺の目の届く範囲、護衛しやすい範囲にいてもらいたい」
「……確かに、考成さんがいるなら、休ませても一人にならないですね。私は大学院とか、仕事の打ち合わせとか、バイトで結構外に出ちゃうから。でも、私も休めるものは休んで、一緒にいます。休ませることにします」
本日の誘拐未遂事件を想起しながら、香澄は同意する。
「そうか」
簡潔に頷いた考成は、かき揚げ蕎麦を食べながら、チラリと景の顔を見た。
子供の相手など、実は経験が無い。
そもそも何故景を護衛するのか分からないのは、考成も同じである。
だが実際に襲われている以上、これは考成の倫理観の問題であるが、子供が危険な目に遭ったら助けたいという想いがある。それを当然のことだと考成は考えている。
「明日の朝、保育園と夜間保育に暫く休むと連絡しますね」
「分かった」
こうして、今後の方向性が決定した。
彼らが一連の危難に巻き込まれる事となった端緒は、紛れもなくこの時点だったのだろう。だがその事に、この時点において、考成と香澄、クロはほとんど気がついてはいなかった。