【小説】第7話 First nightmare.
時は戦国。
令和という時代の義務教育の教科書に表記されている年表には、おそらくグレゴリオ暦で1500年代後半の出来事として――すら、記載されていないだろう。
見覚えのないその場所で、見覚えのありすぎる父が磔刑にされている。
青紫に晴れ上がった顔、険しい形相。
いつも優しく凜々しい父の面影はあるから、あれは間違いなく父だ。
だけど、あれでは――……あのままでは、父が。
父を絶命させる凶器を持つ役人。
「いやああああ!」
絶叫した幼い少女は、自分の声で飛び起きた。隣で寝ていた乳母が驚いた顔をしている。布団を握った少女は、それから瞬きをし、涙がまなじりから零れていくのを自覚した。必死で息をしながら、自分が怖い夢を見ていたのだと判断した。
「お福様、どうしたのですか?」
乳母の声に、自分の名前が福だとやっと思い出した少女は、ゴシゴシと右手の甲で目を擦った。まだ物心がついたばかりの三歳の彼女は、この夢の意味を分からなかった。ただ無性に怖かった。
翌日顔を合わせた父の斉藤利道は、抱きついてきた幼い福を抱き留めると不思議そうな顔をしたものである。
「お福、どうしたのだ?」
「……」
「おやおや可愛らしい娘さんだな」
そこへ声がかかった。ハッとしたように利道が振り返り、福の背中に触れながら気恥ずかしそうに照れてみせる。つられて福も見上げると、そこには限りなく黒に近い僧服姿の一人の青年が立っていた。福には大の男に見えたが、令和の感性からすれば二十代前半頃に見えるものの、この戦国の世に合っては大男としか表しがたい背丈の青年だった。黒い髪をしていて、端正な形の目の色も黒だ。
「これはこれは随風様」
念珠が見えたから、僧侶なのだろうと福は思ったが、その割に剃髪していないことが不思議だった。
「お福。こちらは光秀様の客人で、仏門のお方だ」
斉藤利道は、明智光秀の家臣である。
「昨日の夜中に泣き声が聞こえたが、もしかして?」
随風が屈んで福を見た。真っ赤になった福は、唇を引き結ぶ。
「怖い夢でも見たのか?」
「どうして分かるの?」
「さぁな? ――利道様、光秀様が呼んでおられた。俺が宜しければこちらの姫君のお相手を」
「そうか、かたじけない」
利道はそう述べると、幼い福を随風に預けて、足早にその場を離れる。残された福は、小さな楓のような手を、差し出された随風の掌の上にのせた。
「それで、お姫様? どんな夢を見たんだ?」
「……言いたくないの」
「お父上が磔刑に処されていたんだろう? 粟田口で」
「えっ」
この時の福には、『磔刑』という言葉はまだ分からなかったが、それが夢で見た磔の場面であることはすぐに理解できた。
「もしかして仏様はなんでも分かるの? 仏様の前でブツブツ唱えているから分かったの?」
「そうかもしれないな。時に神仏はヒトの願いを叶えるというし、不思議な力を持つともいう。そうだ、たとえば薬断ちというのを知っているか?」
「なぁに? それ」
「いつか最愛の相手ができて、その者が病魔に倒れたとき、己が代わりに薬を断つことで、相手の快癒を願う一つの祈り方だ」
「ふぅん?」
この時の福には、ただの世間話でしかなかったが、幼心にこのやりとりは焼き付いた。
「しかし忙しくなるな。これからが一仕事、俺の人生の生業だ」
「お仕事?」
「ああ、そうだ。少し旅をして、俺はまた戻る」
「どこへ行くの?」
「暫くは陸奥にいく。高田の寺だよ」
これが福と随風の最初の出会いだった。
さて――こちらは教科書に記載されているだろう歴史的事件、本能寺の変。
大将である明智光秀の副将として、斉藤利道が粟田口で磔刑に処されたのは、福が四歳の頃である。群衆に紛れて、その風景を目にした福は、自分が見た夢が、ただの夢ではなかったのだとこの時悟った。竹槍ごしに、父の姿を目に焼き付け、福は母達とともにその場を離れた。
ドクンドクンと心臓の音が煩かった。
それは大好きだった父の死に際したからではない。
この時初めて、『敗北』という概念に直面したからだった。
負ければ、死ぬ。
蜻蛉の羽をむしって眺めていると、翌日には死んでいるようなものだ。
蝶をつかまえて喜んでいたら、次の日には息絶えているのも似ている。
だが虫たちにはヒトの前にあって自由はないけれど、自分には自由がある。自分の意思で、生きることができる。敗北さえしなければ。母達と歩きながら、疱瘡の痕が残る腹部に福は触れる。病魔はどうにもならないかもしれないが、できることがあるのならば、勝利する。自分の道は自分で切り開かなければならない。
戦国の世は、そのような考えを彼女に抱かせた。
母のお安と京を目指して旅をしながら、福は何度も夜空を見上げたものである。あるいは星もまた、彼女を見ていたのかもしれない。
京へとついた彼女は、父の友人であった海北友松の家に匿われることとなった。息を潜める日々の暮らしの中で、星を見上げながら、福は幾度も考えた。正夢のように世の中には不思議なことは確かにある。ならば、運命もあるかもしれない。だがそれは、自分の意思で変えられるのではないか、と。
少しずつ福の性格が形成されていく。
その時の流れにおいて、明智派の残党狩りの流れは次第に収まりを見せ始めた。
それを見計らい、福達は、お安の郷里である美濃へと向かう。
そして稲葉家で暮らすこととなった。この時には、福は十六歳になっていた。
「縁談……?」
するとすぐに、福に縁談が舞い込んだ。相手は稲葉正成、祖父からの紹介だった。後妻にと請われた福は、同意した。生き抜くために、この時代の女子にとって婚姻は必要なことである。
正成は、既に前妻との間に子がいたが、福を愛してくれなかったわけではなかった。少なくとも当初は。福にも男子が二人生まれたその頃、関ヶ原の合戦を迎える間までに、一度も愛がなかったわけではない。だがこの関ヶ原の戦いにおいて、正成は味方を裏切るかたちで、徳川に有利なように働きかけたという事実から、家康には讃えられたが、結果として浪人となった。
「……」
戦国の世は怒濤であるし、負ければ待ち受けるのは死、だから勝てばいい。
それが福の思うところであったから、裏切り自体に福は抗議することはなかった。いくら稲葉の一族の中で評判が落ちようとも、夫を庇った。
しかし――女としての敗北の味は、また別だった。
浪人生活を送る谷汲村で、正成が妾を持ったのである。
正妻は妾を咎めるべきではないというのは文化でこそあるが、福はやるせなかった。懐刀を握りしめ、刀身を眺める日々が増えていく。嫉妬に狂っているわけではない。このままでは……人生の敗者になるという思いが強かった。
本日珍しく家にいる夫は、寝入っている。風呂敷に荷物をまとめた福は、その日家を出た。そして通りを歩いて行き、妾の家の前に立つ。
「はぁい、どなたぁ? っ、あ……」
福の姿を見ると妙齢の妾は驚愕したように目を見開いてから、顔面蒼白になった。福の手に懐刀があったからだろう。福は、懐刀を――後ずさった彼女が座り込んだ畳に突き立てた。殺されると思って気絶した妾をよそに、福は命を奪いはしなかった。その必要はなかったからだ。
「これで終わり。私は、私の道を行く」
自分に勝ろうとした相手との縁を絶ちきること。
それが彼女の成し遂げたかったことであり、新たな門出への決意表明であった。
その夜も空の星が輝いていた。
その後、福は京に戻り、海北の世話になりつつ、いっとき御所で働いていた。
子を捨てたと罵られても構わないと考える日々の始まりだ。
まだ母乳が出る己の身を思っていたある日、公募の札が立った。
「将軍家の……乳母?」
当初それを知ったとき、福は眺めるばかりだった。
ある日その話を海北にすると、彼は腕を組んだ。
「ああ。貴方が乳母になると噂になってるようだなぁ」
「え?」
寝耳に水だった福は驚いた。だが翌日給仕した御所でも周囲から類似の事を告げられた。事態が飲み込めず、その日は即座に帰宅し、改めて考えることにする。
徳川秀忠と正室の子の乳母を探しているという話は間違いがないらしい。だが徳川家はもとをただせば、正成が家康に褒められたことこそあれど、信長を討った経緯から、福の立ち位置としてみれば勝者であり、福は罪人のがわだ。乳母になるなどありえるのだろうかと思案していると、その日上機嫌で海北が顔を出した。
「知り合いの大商人が表向き仲介をしてくれることになったよ。後藤縫之助っていうんだけどな」
「表向き?」
「そりゃあそうさ。なにせお福さんを請うているのは将軍家の方だからね」
「どうして私を……?」
「さぁ? それは俺には分からんねぇ」
その後、半信半疑ではあったが、福は乳母の求人に応募することにした。
理由は簡単だ。
未来の将軍の乳母になれば、それは即ち覇者となれると考えたからだ。
もう悲惨な夢は見たくない。辛い人生は送りたくない。勝者でいたかった。
こうして御所の仕事は暇をもらい、トントン拍子で話は進んでいった。
幾度か顔合わせなどがあり、令和の世で言うのならば最終面接――そこには、福も過去に目にしたことだけはあった徳川家康の姿と、そして。
「っ」
対面する徳川家康の姿はともかく、その傍らに座している黒衣の僧の姿に、当初福は狼狽えた。顔が見えないすっぽりと覆う布を身につけているから、異形に思えてまずは萎縮した。
「これがそちの希望か、天海?」
「いかにも」
「儂に異論はない」
家康は、そう述べると改めて福を見た。
「仕えてくれるか?」
「わ、私の父はその……」
「知っておる。だがそなたの父は、ただ忠義の元、主に仕えただけだ。それは立派なことである。その忠義心、これからは我が孫に」
家康の言葉に福は感銘を受けた。震えて泣きそうになった。罪人としてしか扱われてこなかった父を認められたと思った。行いはともかく、その心を。家康はそれから改めて、天海と呼んだ僧侶を一瞥すると、人払いを命じてから、己も出て行った。残された福は天海を見ながら、先程の声を、どこかで聴いた声音のように感じていた。
「あ」
すると天海が顔を隠していた黒い布をとった。
その姿を見て福は目を見開く。そこには今では自分と同じ年の頃、あるいは自分よりも若く見える青年の顔があった。しかし見間違えるはずもない。
「随風様……?」
「久しぶりだな、お姫様」
「っ、あ……お久しぶりです」
「今は、天海と名乗っている。これから宜しく頼む」
「どうしてここに……?」
「ん? それは、俺がお前を推挙したからだ。それが俺の、生業だからだよ」
これが南光坊天海とお福――のちの春日局の再会の一幕だった。