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木漏れ日 (2)

 軽井沢は予想以上に快適だった。下界の酷暑が嘘のよう。日中はさすがに暑くなるけど、空気がからっと乾いていて過ごしやすい。日が沈むと気温が下がるから、エアコンなしでぐっすり眠れる。空気も食事もおいしいし。思考の底に分厚く溜まってしまった泥。そこに埋もれてぴくりとも身動きできなかった僕という小魚が、少しだけ浮上した……みたいな。ささやかな解放感があった。
 ただ、作業はどうしようもなく単調だった。現場仕事を熟知している馬場さんは恐ろしく手際がいい。僕の出番がほとんどないんだ。ちょっとここを塗っといてくれとか、下絵の線を上書きしといてくれとか。画学生でなくてもこなせるような作業しか降りてこない。だから、バイト初日で自分の立ち位置がわかってしまった。本当なら馬場さん一人でもこなせるはず。でも、制作班の中では馬場さん自身が雑用係に近いんだ。体は一つしかないからオーダーが立て込むとさすがにしんどくなるんだろう。で、無難で単純な作業はバイトに分担させようってこと。バイトは下請けのさらに下請けみたいなものだから、込み入った作業は僕に下ろさない。
 僕にアーティストとしてのプライドがあれば、先輩と同じようにこりゃあかんわと一日で離脱したかもしれない。でも創作力の限界を感じ続けていた僕は、現実逃避と避暑を優先した。バイトが終わったら絵描き以外の進路をそろそろ考えないとならないかな、絵を描く以外に取り柄のない僕はどうしたらいいのかな、とかぼんやり考えながら。ただ機械的に手を動かし続けた。

◇ ◇ ◇

 バイト三日目。今日も朝から快晴。避暑地と言っても南極や北極じゃなくて同じ日本だから、日中はかなり暑くなりそうだ。ほとんど塗装工と化していた僕は、飛び散った塗料で全身マーブルになりながら黙々と刷毛を動かしていたんだけど。そこに馬場さんがふらっとやってきた。

「馬場さん、塗りの追加ですか?」
「いや……」

 苦虫を噛み潰したような顔だ。僕、何か大きなへまをやらかしたかな。びびっていたら、馬場さんがちらっと本部の方に目をやった。

「三村さんに頼みがあるんだ。ちょっと人の相手をしてほしい」
「は?」

 人? 限られた時間内に撮影を済まさなければならないから、撮影班もサポーターも忙しなく走り回ってる。暇な人なんかいるの?

「えーと。誰、ですか」
「島野さつきっていう若い女優さん」

 冗談じゃない! 出演者じゃん。それもちょい役じゃなくて、準主役だ。なんでまた。

「ええー? 嫌ですよ、そんなの」
「こっちも避けたい申し出なんだけど、向こうのたっての要望でねえ」

 馬場さんの渋面がどんどんひどくなる。その表情は僕がしたいんだけどな。絵の具だらけのスモックにもう一つ赤い点を増やしてから、持っていた刷毛を置く。袖で擦った頬が赤くなったのは絵の具のせいじゃなく、僕が怒ったからだ。
 いや、衣装さんとか音響さんとか同じ裏方の人から飲みのお誘いがあったのなら、勉強になりそうだから喜んで乗るけどさ。島野さつきって、今まさに赤丸上昇中の実力派女優でしょ。まだ高校生だし、スキャンダル系絶対アウトじゃないの? ファンに身バレしたら僕がぼこられちゃう。冗談抜きで勘弁してほしい。

「えっと、マネージャーさんが反対してるんじゃないですか?」
「いや……」

 馬場さんが、ありえないって顔で首を振った。

「マネージャーさんも公認なんだ」
「なんですか、それ? 役作りを手伝えとかなんですか? それなら僕よりずっと適任者が……」
「その辺りのことは俺にはわからないよ。ただ、三村さんピンポイントでご指名なんだ」
「ううー。がんべんじでぐだざいよう」
「気持ちはよくわかるけどな。とりあえず、本人と直接話してみたらどう?」

 気乗りはしなかったけど、断るにしても本人に直接の方がいいんだろう。

「じゃあ、僕の持ってる分が上がってからでいいですか?」
「ああ、俺がやっとくよ」
「……」

 やっぱりか。いかにバイトとはいえ、僕の持ち場は根城と同じだ。仕事にダメを出されるのは仕方ないけど、やっとくはないでしょ。僕の技術やセンスを全く評価してないから、こんなクソな話を平気で持ってくるんだよな。
 でも馬場さんが言い出した話じゃない以上、馬場さんに抗議したって始まらない。僕は単なる埋め草だと割り切るしかない。

「じゃあ、お願いします。島野さんは今オフなんですか?」
「マネージャーさんと一緒に本部にいるよ」

 撮影班は旧軽井沢の街中に行ったはず。戻ってきてからこっちでの撮影があるのかわからないけど、今は待ち時間てことなんだろう。

「わかりました」

 どうせ断るんだし。仕事用のウエアを着替えるのが面倒で、絵の具染みだらけのスモックを着たまま撮影クルーの休憩コーナーに歩いていった。

「三村ですけど。なにか御用ですか」

 彼女にではなく、マネージャーさんに声をかける。アラフォーな感じの女性マネージャーさんは、僕のてっぺんからつま先までじろじろ見回すと、硬い表情のまま馬場さんと同じことを言った。

「さつきちゃんとデートしてあげてくれない?」
「なぜですか? 理由がちっともわかんないんですけど」
「わたしにもわかんないわよ」

 はあ? どういうこと?

「でも、さつきちゃんのたっての希望なの」
「役作りの練習とか、ですか?」
「違う」

 レイバンのサングラスをかけてデッキチェアに体を預けていたショートヘアの女の子が、両足をぽいっと前に投げ出しながら否定した。ぱつんぱつんの赤いタンクトップと白のショーパン、か。肌の露出が極端に多くて、健康的というよりエロケバい感じがする。でも、撮影用の衣装じゃないみたいだな。それにしても。映像でしか見たことないけど、女優さんて間近で見ると迫力あるなあ。スタイル抜群でも顔がすごくかわいいってわけでもないのに強烈な存在感があるのは、意思の強さに一切カバーをかけていないからだろう。その対極にある僕は溜息をつくしかない。
 島野さんは、僕に目を向けることなく空き缶を放るようにして答えた。

「出待ちの時間が暇だからよ」
「いや、あなたはともかく僕は暇じゃないんですが……」
「じゃあ、なんでここにいるわけ? 馬場さんに追い出されたんでしょ?」

 図星をさされて、かちんとくる。

「帰ります。僕は単なるバイトですし、あなたにも馬場さんにも義理があるわけじゃないので」
「だめよっ!」

 ほんの少し前までものすごく偉そうな態度だった島野さんは、この世の終わりをいきなり宣告されたような顔をして素早く僕の前に回り込んだ。

「だめ! ここにいて。支度してくるから」

 そう言うなり、どこかに走り去ってしまった。まるっきりわけがわからない。マネージャーさんはがっくり肩を落としているし。

「あの、いいんですか?」

 マネージャーさんにもう一度確認を取る。

「いいも悪いもないわ。出待ちって言ってたけど、さつきちゃんのシーンでオーケーが出ないままなの。撮影が止まっちゃってる」
「げ……」
「普段はあんな子じゃない。もっと素直でまじめなんだけどね……。それが裏目に出てるっていうか」
「気分転換したいんですか? 僕じゃ相手にならないと思うんですけど」
「そこらへんはわたしにはわからないわ。デートって言っても時間はちょっとしかないし、人の多い街中には行けない。この辺りでほんの少し息抜きってことね」

 ああ、それならなんとかなるか。

「わかりました。でも、この格好でいいんですか?」
「いいんじゃない? さつきちゃんも着替えろって言わなかったでしょ」

 この格好なら、外部の人が見てもスタッフと話しているようにしか見えないだろう。だいぶ気が楽になった。

「お待たせ」

 再び現れた島野さんは、さっきとは全く別人になっていた。髪はセミロング……ってことはウイッグか。サングラスを外し、コントラストの強かったメイクを薄めに変えている。服装は激変。高原の別荘に避暑に来ている良家のお嬢様って感じの白いワンピース姿だ。ふわりと柔らかい印象は、さっき見た露出の多いスポーティな格好とまるっきり路線が違う。足元はおしゃれな編み上げサンダル。手には白レースの日傘。

「ええと。そういう役なんですか?」
「いやー、軽井沢で避暑ならこういうイメージなのかなーと思って用意しといただけ。撮影とは全然関係ない」
「へえー」
「時間がもったいない。行くわよ」
「どこに、ですか?」
「ここらへんでいいでしょ。シチュ的にも」

 それもそうか。撮影本部があるのは木立に囲まれた別荘地の一画だ。スタッフ用にコテージがいくつか借り上げられていて、撮影自体は旧軽井沢の市街と監督の知人が所有している高級別荘を中心に行っているらしい。デートと聞いて身構えていた自分がばからしくなる。スケジュールが押してぴりぴりしているスタッフには絡めないから、暇そうな僕で息抜きしようってことなんだろう。まあ……いいけどね。
 それなら、僕も息抜きさせてもらおう。どうせ会話はいくらも続かないはず。何枚かスケッチが描ければそれでいいや。作業中も持ち歩いているB6版のスケッチブックと色鉛筆さえあれば、なんとか間が保つだろう。そう割り切ることにした。
 島野さんは、木漏れ日に飾られた林内散策路を気ままに歩く。僕の方になんか振り返りもしない。僕も島野さんのことは特に意識せず、顔に落ちる木漏れ日がくすぐったいなあとか思いながら、ゆっくりあとをついていった。


A Walk In The Forest by Brian Crain

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