発掘された日記集・箱詰めのはらわた  

下書きにずーっと残っていたものを放出。

(2024/09/05)

・職員室に出向いたら数学の先生の机上にそこそこ大きめなハリボーのバケツがあった。スタンダードなくまのグミが入っている様子ではなく、大ぶりで白いものが入っていたのでマシュマロとかなんだろうか……と思っていたら、後日その中身が判明した。ゴム製の小さなアヒルのおもちゃだった。お風呂に浮いていそうなアレ。どうやら底面に数字が書いてあるらしく、くじ引き形式で授業中の指名に使われていた。なんにせよかわいい。

・財布なくした!!保険証も学生証もマイナンバーカードも全部入ってるのに!!と絶望的な気分になっていたら翌日普通に教室の机の中にあった。気をつけます。

・満員電車に押し込められながらテトリスを思うなどした。

・ホームに降りたらちょうど発車する前の電車が停まっていて、急いで乗ろうかと考えた矢先に「無理なご乗車はお辞めください」というアナウンスがあったので、(無理なご乗車はお辞めするかあ)と思って次の電車に乗った。

・道行く新学期始めの小学生たちから「ねえ引き出し持ってきた?」との会話が聞こえてきて、そういえば引き出しを持って帰るという文化があったなあと思い出した。私の出身の小学校では青いプラスチック製のものが使われていて、学期始めや末には箱のように閉じた状態でランドセルにそのまま入れて持ち運んでいた。なつかしい。

・めっちゃ細身で綺麗なグレーのわんこを見た、
テンションが高そうで良かった。

・体育の授業を見学して、バスケの試合を見た。概念的なエネルギーの塊が俊敏に動いている……などと思いながら観察していると、野球部の面々が投擲能力だけで押し切っていてちょっと面白かった。野球ボールの投げ方でバスケットボールを投げられるってどういうこと?

・最近引っ越しのために本棚にある本たちをダンボールに詰めている。作業をしているとキャトルミューティレーションという言葉が思い浮かび、いやだいぶ意味合いが違うなあと思い直すことを繰り返している。
 小さな箱いっぱいにつまった文字と紙の集合。それらは私の内臓と言っても過言ではなかった。誰もにとって思い通りに動く人形として育てられた私が、拙いながらも自由な情緒的成長を為すことができたのは紛うことなく彼らのおかげだったから。
人から勧められたもの、自ら手に取ったもの、気づいたら近くにあったもの。
どれ1つだって押し着せられたものはない。全部に必ず私の意思が詰まっている。何が楽しくて、嬉しくて、何が好きで、何をしたいか。いつでも明瞭にそれらを確信できた頃がそこに詰まっていて、もう本当に嬉しかった。この手で本を箱に入れていくたびにとめどない愛しさと痛みで泣きそうになった。

(2024/10/08)
・引っ越しを済ませた今、その内臓たちは以前のものより少し小ぶりになった本棚にきれいに並んでいる。どれだけ年季が入っていようとどうしても持って行きたかった、私の礎たる児童書たちも無事にそこに。読み返さなくたって彼らがそこにいてくれるだけで、私は私がずっと前からただ1人の私であるという連続性をほんの少しだけ見出すことができるし、それに私は寄りかかって今日も生きている。そしてきっとこれからもそうなのだろう。

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