湖の記憶8(ミステリー小説)
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病室に若い医師が入ってきた。
「こんにちわ。私が担当をしております野口と申します」
「よろしくお願いします」
「見たところ右腕の骨折だけのようですが、念のため明日脳の検査を行う予定です。申し訳ないですが、見舞いは二十時までですので、そろそろお引取りいただかなければなりませんが」
「わかりました」
サトルは琴音の左手を握って言った。
「また明日来るからね」
「ごめんなさい」
琴音がまた謝った。
面会時間の十五時にサトルは病院に着いた。受付を済ませて、サトルは琴音の部屋へ急いだ。
「来てくれてありがとう」
琴音は昨日より顔色が良くなったようだ。
「気分はどう?」
「睡眠薬を飲んだから、よく眠れた。午前中はずっと検査でドタバタしてた。でも気分は悪くないわ」「それは良かった」
サトルは琴音の頬を両手で包んだ。
看護師が入ってきて、
「先生がお呼びです」
と伝えた。
「ちょっと行ってくる。また戻ってくるから待っててね」
サトルは琴音に笑顔を見せ、病室を出た。
「脳検査の結果、問題はありませんでした」
「そうですか。良かった」
「もうひとつ良かったことがありますよ。お腹の赤ちゃんは無事でした」
「えっ、赤ちゃん?」
サトルがびっくりして聞いた。
「えっ、知らなかったんですか? 妊娠3か月ですよ」
今度は担当医が驚いた声で言った。
「初めて聞きました。後で妻に聞いてみます。病室に戻っていいですか?」
「ひとつだけ伝えなければいけないことがあります。あなたのご両親の件ですが、奥様にはすでに伝えてあります」
担当医がうつむき加減で言った。
「赤ちゃんのことを知っていたら言わなかったのですが、奥様はしっかりした方のようでしたし、ご両親が亡くなったのかどうしても教えてほしいと強く言われましてね」
「わかりました。その件も妻と話してみます」
サトルは診療室を出た。
「お腹の中に赤ちゃんがいるんだって?」
「ええ、隠していたわけじゃないのよ。四日前に産婦人科に行ってわかったの。誕生日と出版記念を兼ねての食事会のときに、サプライズで言おうと思って」
「そうか」
「ごめんなさい」
「謝ることないよ。それより大丈夫? 僕の両親が死んだこと、もう聞いたんだろう?」
「ええ。私がそばにいたのに」
琴音の両目に涙が溜まっていた。
「仕方ないよ。琴音のせいじゃない。父さんだってちゃんと運転していたんだから。対向車を運転していたヤツが突っ込んできたそうだよ。相手も死んでしまった」
「そうなの?」
「ああ、とにかくゆっくり休んで、早く治してくれ。赤ちゃんのためにもね」
サトルはハンカチで琴音の涙を拭き取りながら言った。
両親の葬儀は親族のみでささやかに行われた。通夜の夜、サトルは一人ふたつの棺の前に座っていた。「親父。おふくろ。ちゃんと謝ろうと思っていて、結局謝らないでこんなことになっちゃったね。今まで本当に迷惑ばかりかけてごめん。今までありがとう。本当は直接言いたかった」
サトルは棺に顔を伏せて号泣した。
「孫の顔も見せられなかったね。琴音のお腹の中に赤ちゃんがいるんだよ。琴音はあの日、二人にも伝えるつもりだったんだよ。親不孝な息子でごめんね。これから恩返しがしたかったのにね」
真っ赤な目で両親の顔を順に見ながら、サトルは聞いた。
「でも、オレは小ちゃかったときのことが知りたかった。なんで教えてくれなかったの? もう知ることもできないんだね」
サトルはその日、一人棺の前で眠った。
<続く>