時間に追われる男の物語
「君、悪いけど明日の朝一番の会議資料を作ってくれないか。担当者別の顧客ランクを決めなければいけないんだ」
「わかりました」
男はそう返事をして、腕時計に目をやった。
時計の針は4時半を指している。会議資料を作るには最低でも4時間以上はかかる。
「今日も残業か。でも、久しぶりに終電前には帰れそうだ」
男は誰にも聞こえない声でつぶやいた。
男のスケジュール帳は、真っ黒に塗りつぶしてあるのではないかと思うほど、文字がびっしりと書き込まれていた。明日は明日で夕方までに作らなければいけない管理職会議の資料がある。そして、会議が終われば議事録の作成が待っている。
先週は休日出勤をしたうえに2日間徹夜もしている。最近、脳みそが疲れるということを初めて知った。それでも上司から認められているからこそ、仕事を与えられているわけだから、疲れたなどと言っているヒマはない。
午後9時に仕事を終えて会社を出る。
家まで1時間半、食事と風呂を済ませて日にちをまたいで寝る。
朝は5時半に鳴る目覚まし時計に起こされ、朝食も食べずに家を出る。
7時半に出勤し、昨夜の資料について上司と打ち合わせる。何点か修正箇所を直して、なんとか9時からの会議に間に合わせる。
会議では眠気を我慢して、ノートに議事内容を書き留める。
会議が終わり、同僚に頼んで買ってきてもらったおにぎりを2つ食べながら、管理職会議資料を作り始める。
「君、7月6日の午後は空けといてくれ。役員会資料について打ち合わせしたいんだ」
「わかりました」
男は真っ黒なスケジュール帳の隙間に予定を書き込む。
夕方5時に管理職会議資料を上司に提出した後、朝の会議の議事録を作成する。明日は顧客と打ち合わせがあるため、プレゼン資料も今日中に作らなければいけない。
妻に「今日は帰れない」と電話を入れる。「いい加減にしないと体を壊すわよ」と妻に言われて、ムッとする。
俺は上司から信頼されているんだ。裏切るわけにはいかない。それをわからないなんて、なんという妻だ。
議事録完成後、1時間仮眠を取り、プレゼン資料を作り始める。このプロジェクトを獲得できれば大きく会社の利益に貢献できる。プロジェクトを獲得したらしたで、またスケジュール帳にはプロジェクト完了までの日程がたくさん組み込まれることになるが、そんなことは気にしてはいられない。
「おはよう。また徹夜かね。体には十分注意しておけよ」
上司に声をかけられる。
「いえ、大丈夫です」
男は疲れを隠しながら大きな声で答える。
今日締め切りの業務も山のように残っている。しかし、2日続けての徹夜はさすがにキツい。今日は終電で帰ろうと決める。
夕方、社長がやってきて、上司に仕事を命じた。
「明日の正午までにやってくれ」
社長は言った。
社長が出ていくと、上司が男の顔を見た。
「今の話を聞いていたと思うが、悪いんだが、この仕事も頼まれてくれないか」
上司の無茶振りに、男も反発しようと思ったが、出た言葉は「はい、わかりました」。
これでは今日も徹夜確定だ。
「仕事が一段落したらご馳走するから飲みに行こう」
上司は男にそう言って、会社を後にした。
いったいいつになったら一段落つくというのだろうか。男はスケジュール帳を見る。先々の予定はいっぱいに詰まっている。それでも予定が終わったことを示す二重線を引くときの快感が忘れられない。
「今日も徹夜になる」と妻に電話を入れる。
「はいはい、わかりました」呆れた声で妻は言った。俺の稼ぎがあるから食べられているのに、なんで理解できないのかと憤る。
2時にプレゼン資料が出来上がったので、1時間だけ仮眠を取るため、来客用のソファに寝そべる。
男は夢を見た。
慌てふためいて逃げる自分を時計の長針が追いかけてくる。長針は刃物のように鋭く、追いつかれたら体ごと切り裂かれてしまいそうだ。必死に逃げるが長針も必死に追いかけてくる。
男は短針に足を取られ、転んでしまう。長針が目の前に迫ってきた。
「ギャー」
男は自分の声で目を覚ます。冷や汗で体中がびっしょりになって、動悸も激しい。頭痛もする。
俺はいったい何のために働いているんだ。これじゃあ生きているなんて言えないではないか。上司から信頼されているだって? これではただ使われているだけの便利屋ではないか。社長からの頼まれ仕事はまったく手つかずの状態だったが、仕事をする気力が失われてしまった。眠たい、休みたい、苦しみから逃れたい。このままタクシーで家に帰ってしまおうかと思う。
しかし、社長からの仕事を投げ出すわけにはいかない。男は力を振り絞って仕事に取りかかる。胸に痛みが走ったが、この仕事をちゃんとこなせば、社長へのアピールにもなる。
「おはよう。社長から言われた資料の出来具合はどうだ?」
上司が8時に会社に来て言った。
「正午までには終わらせます」
内心イライラしながらも、男は丁寧に答える。
ラストスパートだ。男は必死に資料を作る。しかし、頭が働かず、なかなか思うように仕事がはかどらない。
11時半になったとき、遠くから不気味な音が聞こえた。振り向いてみると、時計の長針が自分に向かってくる。長針はナタのように鋭い刃をきらめかせている。
男は焦って資料作りを急ぐ。時計の針との戦いが始まった。
11時50分。あと10分では到底終わりそうにないが、男をあざ笑うかのように長針が近づいてくる。あせればあせるほど、パソコンのキーを打ち間違えてしまう。
とうとう残り10秒になり、カウントダウンが始まった。胸の痛みは激しくなったが、男は最後まであきらめない。
3、2、1、0。時計の長針が男を引き裂いた。
「資料はできたかね」
上司が男の元に来た。男は机に伏せている。
「おい、君。寝ているのか?」
上司が男の肩を叩くと、男はそのまま床に倒れこんだ。
「おい、大変だ。誰か救急車を呼んでくれ」
上司が叫んだが、そのとき男の心臓はすでに動きを止めていた。
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