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幻聴 第1章 天のお告げ

「大事な話があるんだ」
相沢幹生は昼食の片づけをしている妻の真弓に言った。
「何かしら。実は私も話したいことがあるの」
「そうか。じゃあ洗い物が終わったら、居間で話をしよう。君の話から聞こうか?」
「いいえ、あなたの話から聞きたいわ」
「わかった。じゃあ待ってるよ」
幹生の撫で肩の後ろ姿は、真弓にはいつもより小さく見えた。

後片づけを終えて真弓が居間に入ると、幹生はソファーに座って窓の外を眺めていた。

真弓は食後のコーヒーを二つテーブルに置いて、幹生の真向かいに腰かけた。
「じゃあ、僕から話させてもらうよ」
幹生はいつになく緊張した表情で話し始めた。

「最初に言っておきたいのは、僕は真弓と出会えて、こうして結婚もして、本当に幸せを感じているっていうことなんだ。今この瞬間も真弓のことを愛しているし、このまま二人で幸せな人生を歩めたらどんなにいいだろうとも思っている」
真弓はにっこり微笑んだ。
「ありがとう、私も同じ気持ちよ」
「じゃあ、なんでこんなことを言うのかって驚くと思うけど」
幹生はひとつ深呼吸してから、真弓の目を真っ直ぐに見た。
「僕と離婚してほしいんだ」

幹生の瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのを、真弓は冷静に見ていた。
「驚かないんだね」
真弓が取り乱したところを幹生は今まで一度も見たことがなかった。しかし、今度ばかりはと覚悟していた。それなのに真弓は動揺も見せずに自分の話を冷静に受け止めている。
「そんな予感がしていたから」
真弓がぽつりと言った。
幹生はどうしてそんな予感がしたのか理由を聞きたかったが、とりあえず自分の話をすべて済ませてしまおうと思った。

「実は今まで君に隠していたことがあるんだ」
幹生は心を落ち着かせるためにコーヒーを一口すすった。
「君は僕たち二人の出会いを覚えているかい?」
「ええ、新宿を歩いていたら、あなたが声をかけてくれたわ。私が25歳のときだった」
「そう。僕は27歳の誕生日を迎えたばかりだった。あれからもう6年になるね。君はなんであの日僕と付き合ってくれたの? あの辺はナンパする人たちもたくさんいるし、たぶん君だったら何人か声をかける男もいただろうに」
「あなたはナンパばかりしている軽薄な人たちとは違って見えたから。すごく緊張していたみたいだったし、それに真面目そうな人だなって思ったの」
「そうだったんだね。実はあの日、僕に不思議なことが起こっていたんだ」
真弓は幹生の話に興味を持ち始めたように、少し前屈みになった。
「信じてもらえないかもしれないけど、まずは最後まで話を聞いてほしい」
幹生は乾いた唇を潤すために、再びコーヒーを口に含んだ。
「あの日は今日と同じ日曜日だった。僕は近所のコンビニに行こうと思って外に出た。少し歩いたところで、どこか空の上から声が聞こえてきたんだ。『新宿へ行きなさい』って」
真弓の瞳が大きくなった。
「わけもわからず僕は新宿に行った。なぜその声に従ったのかは今でもわからない。どうせヒマだったから、それじゃあ言ってみようかなと思って。とにかく新宿に着いて、あてもなく歩いていたら、君が前から歩いてきた。きれいな人だなって思った。そうしたら、また天の声が言ったんだ、『あの女性に声をかけなさい』って」
幹生の目はあの日を思い出しているかのように遠くを見つめていた。
「それからも僕は天の声に従った。どこで食事をすればいいか、何の映画を観ればいいかまで、あの日天の声は教えてくれた」
「あなたはあの日、私の食べたかったイタリアンのお店を選んでくれたし、観たいと思っていた映画にも連れていってくれたわ」
真弓が懐かしそうに笑みを浮かべた。
「僕はあのとき君と結婚すると確信した」
「私もあのとき、あなたと結婚するんだろうなって感じたわ。これは運命なんだって」
「プロポーズのときも、結婚式の日取りも僕は天の声が告げたとおりにした」
「すべて天の声に任せたわけね」
「そのとおりだ。天の声に従わないと、何か悪いことが起きそうな気がした」
「もしかしたら、子供を作らないほうがいいって言ってたのも、天からの指示だったの?」
「そうだよ。理由はわからなかったけど、まだ子供は作ってはいけないって言われたんだ。君が子供を欲しかったのは知っていたけれど、僕は天の声を裏切ることができなくなっていた。それについては今ここで謝りたい」
「いいの。天の声のおかげで私も幸せになれたのだから」
「そう言ってもらえると心が休まるよ」
幹生はフーッと大きなため息をついた。
「それからはピッタリと天の声がしなくなった。幸せになれたから、天の声も役目を終えたのだろうと思っていた。それが今朝、また天の声が聞こえたんだ」
幹生の顔が悔しさに歪んだ。
「君と離婚しろと言うんだ。なんでそんなことを言うのか、僕にはわからない。今こんなに幸せなのに。でも、天の声は今までに間違ったことを言ったことがなかった。天の声のおかげで僕は幸せになれた。たぶんこのまま二人で生活を続けていると、何か良くないことが起きるに違いないと思った。それを天の声が教えてくれたんだって。僕は君を不幸にはしたくないんだ。だから、僕と離婚してほしい」

真弓は初めてコーヒーに口をつけた。考えをまとめているかのように目を閉じたが、やがて真弓はまっすぐに幹生の目を見つめて言った。
「わかったわ。離婚しましょう」
「ありがとう」
肩の荷をすべて降ろしたかのように、幹生の顔に初めて笑みが浮かんだ。

「で、君からの話って何かな?」
真弓は冷めたコーヒーを一息に飲みほすと、ゆっくり話し始めた。
「今のあなたの話を聞いて、私びっくりしたの。だって、私の話そうとしていたのと、まったく同じだったから」
今度は幹生が驚く番だった。
「あの日の日曜日、私は一人でベッドに寝ていたの。そうしたらどこからか声がしてきたの。『新宿へ行きなさい』って。わけがわかならかったけど、私も結局その声に従ったわ。そして、あなたが声をかけたとき、同時にまた天の声が聞こえてきたの。『この男に従いなさい』って」
真弓がにっこり笑った。
「それからも天の声はあなたが決断したことに従いなさいって言い続けてきた。私はそれに従ってきた。おかげで私も幸せな人生を歩んでこられた。あなたにはすごく感謝しているの」
「そう言ってもらえると、僕としても嬉しいよ。こちらこそありがとう」
「それなのに今朝、あなたの顔を見たとき、久しぶりに天から声が届いたの。『あなたと離婚しなさい』って。私もなんで今になって別れなければいけないのか、まったくわからなかったわ。でも、天の声には必ず意味がある。天の声は私に幸せを運んでくれる。だから、今回も天の声に従おうと思ったわ。だけど、あなたにそれをどうやって説明したらいいのかわからなかった。食事していたときからずっと悩んでいたの。あなたに理解してもらえなかったらどうしようかと思っていたから。でも、あなたの話を聞いて、実はホッとしたの」
「びっくりしたよ。お互いに天の声を聞いていたんだね。これもきっと運命なんだ」
「子供を作るなって言ったのも、きっと離婚することが前提だったからなんだろうね」
真弓はコーヒーカップを片付けながら言った。
「明日、区役所に離婚届を取りに行ってくるわ」
                   <続く>

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