大事な友だちと、『距離』
大学の友人と1泊2日旅行へ行ってきたときの話。
大学入学から仲良くなって普段からよく遊ぶ友人たちと長野旅行へ。
1泊したホテルでの夜、お泊まりといえばで恋バナタイムとなった。しかし私以外の友人には現在パートナーがいて、出てくる話は就職後のことや結婚のこと。その時私たちが求めていた恋バナとは、いわゆる片想いのドキドキや気になる人の好きなところ、みたいな胸キュンエピソードだった。
とはいえ、私にはパートナーもいなければ好きな人も気になる人もいない。無理やりに落ち着いたのは“男女の友情は成立するか否か”というテーマだった。
私個人としては、そんな性別二元論的で異性愛主義なテーマなんて……と思うところではあるが、その瞬間の友人との楽しいひとときを優先する方が大事だったのでスルーした。
“男女の友情は成立するか否か”という問いに対して、意見は割れた。さらに私の身には最近少しモヤモヤしてしまった出来事があったこともあり、議論はいつの間にか白熱していた。
私には沢山友だちがいる。というのも、単に交友関係が広いだけではなく「1度話せば友だち」という友だちの浅い定義が私の中にあるからだ。
その中でも、できれば嫌われたくない『大事な友だち』という枠がある。価値観が合う・話が合う・会話のテンポが合う・距離感が合う。数多い複雑な条件を満たした友だちが、私にとって『大事な友だち』だ。
『大事な友だち』が何人いるのか数えたことはないし、だれが『大事な友だち』であるかわかって接しているわけではない。だけど、今回のエピソードに出てくる友だちは、確実に『大事な友だち』である。
その友だちは、すごく話しやすくて明るくて元気で、一緒にいてすごく楽しい。そしてその友だちは、異性である。
なぜここであえて異性と説明するかというと、この友だちと私との間には、いわゆる“男女間の友情”が成立していたから。
しかしこれが最近私の中で壊れてしまった。
私たちはお酒を呑んでかなり酔っ払った。そして私の酔いが彼より先に冷め始めたころ、次第に距離が近くなり、私は彼に抱きつかれた。
『大事な友だち』のなかでも、スキンシップの度合いや物理的距離の許容範囲は人それぞれ異なる。彼とのそれは、その範囲を大きく越えてしまっていた。
かといって彼がその範囲を越えてきたとて、たまたまお酒を呑んで酔っ払った際の単なる事故ではあるので、当時の私は呑気に受け入れていた。
彼を介抱してその日は解散。私が抱いたモヤモヤは、翌朝以降から始まった。
あの時の光景や感触が、ふとしたときにフラッシュバックする。今文字を打っている間も、記憶が思い出されそうになって必死に抑えている。
かつてパートナーがいた時も、私の許容範囲を越えたスキンシップをしてしまったことを思い出す度に嫌悪感がする、あの感覚が蘇った。
ただ不思議なことに、この感覚は相手が異性である時にしか感じられない。
考えられる原因は、私が性的なスキンシップの許容範囲が異性に対してだけかなり狭いのかもしれないということ。
となると、私がパンロマンティック・フレイロマンティック・アセクシュアルであることに、さらに条件が足されることになる。
私は、性別に関係なくさらに浅い関係性の相手にだけ恋愛感情を抱き、男性に対してアセクシュアルである。
となると、私は「男女間の友情は成立するか」という問いに、これまでのようにイエスと断言できない。
今回とてもとても大事な異性の友だちに対して、どうしようもないモヤモヤが生まれた。これから先それが消えないうちは、これまでのような純粋な友だちには戻らないと思う。
自分が守れたはずの『大事な友だち』を、1人失った。
それもこれも私が傲慢だったから。性別に関係なく人と接することができると思い込んでいたせいで、実際そんなことなかったときに私は勝手に傷ついて、相手を手放してしまった。