人生を変えた、長野オリンピック・ボランティアの思い出(1)
今だから、覚えているうちに書きとめておこうと思った。
日本で行われた前回のオリンピックボランティアのことを。
1998年2月、長野オリンピック(冬季五輪)が行われました。私は当時29才社会人。クロスカントリスキー、ノルディック複合が行われた、白馬村のスノーハープで12日間、アクレディテーションオフィスのボランティアとして活動しました。
■なぜ、いつ応募したのか
名古屋出身名古屋在住ですが、小さいころからスキーをやっていて、大学のときは、スキーバスの添乗員のバイトをしつつ、練習して、基礎スキー部に所属していました。卒業前にようやく1級に合格した位のスキー好きでした。
卒業した1991年に長野五輪招致が「まさか」決定し、4年前の1994年にボランティアが募集されました。そのときは、興味はあったけれど、プログラマとして就職して間もないし、応募しませんでした。
その後、スキーでは、全日本スキー連盟の準指導員の資格を取得。長時間労働に耐えきれず退職して、1ヶ月海外遊学して、転職したら、、、また長野五輪のボランティアが気になり始めました。
大好きなスキーが、、、日本でオリンピックするなんて。いつも行っている長野の志賀高原や白馬で。ボテンティア、というより、オリンピックに参加したかった、、、そんな気持ちでした。
当時はまだインターネットは一般的でなく、パソコン通信の時代。情報はほとんどない。ボランティア募集は締めきっていることは知っていたけれど、いちかばちかで行動に出ました。
■「長野オリンピックのボランティアやりたいのですが」
1996年、多分秋くらいに長野県庁に直接電話しました。案外スムーズに担当者につないでいただけたと思います。
「本当はもう締め切っているんですけどね。。。。英語、話せますか?他に資格とか持っていますか?運転とか医療関係とか。」
「はい。日常英会話はできます。スキーの準指導員はもってます。」
「どこに住んでますか?」
「名古屋ですけど、友達が長野にいますので、泊めてもらえると思います」
「わかりました。じゃあ、お願いします。申込書郵便で送りますので、すぐ返送してくださいね。」
あっという間に採用になってしまいました。
どっさり書類が送られてきて、希望日程(10日くらい)、会場(志賀高原・白馬)、希望職種、所持している資格、語学レベルなどを書き込み、顔写真などを貼って返送しました。
しばらくすると、研修の案内が来ました。
後にわかってくるのですが、外国語(英語と特にロシア語)ができる人が少なく、輸送と医療のボランティアも不足していたそうです。特に輸送は、雪道運転の必要があったため、プロでさえ、不足していたそうです。
私の場合、スキーの資格があったので、過酷な雪山での仕事が可能ととらえられ、かつ英語ができれば、役立つだろう、、、と判断されたのではないかと思っています。
■研修は3回
その後、職種と会場が決まり、1997年春から、研修はスタートしました。私の場合、3回ありました。
・1回目「アクレディテーション担当の全体研修」
私は大阪で受講しました。東京も、長野も、もちろんありました。大勢の人で、かつ、いきなり英語のあいさつから始まったため、ビビりました。
関係者の人が首からかけているIDカードを発行するのが主な仕事ですが、デジカメで顔写真を撮影して、IBMのパソコンを操作して印刷、といった一連のパソコン操作が必要な職種でした。パソコンは慣れていましたが、操作はややこしかったですね。当時の技術の最先端だったと思います。
・2回目「長野市内での全体研修」
長野新幹線が開通した直後でした。オリンピックに合わせての開業でした。私は名古屋なので、当時も今も「しなの」。。。
・3回目「スノーハープ(クロスカントリースキー場)の現地研修」
管理棟での座学研修の後、皆で会場を歩いてまわりました。まだ雪が降る前でした。それでも、とても起伏があり、敷地が広くてびっくりしました。観客や選手の入場口、トイレ、観客席、百葉箱の位置なども案内されました。
「広いよね・・・・」少し皆不安になりながら、ボランティアの皆と連絡先交換して連帯を深めました。
研修当時は、携帯電話の電波はつながらず、「オリンピック始まるまでには、だいたいつながるようになる予定です」とのことで、連絡はトランシーバー、あるいは、固定電話とFAX利用でした。
当時、荻原兄弟がノルディック複合全盛のころですので、TVでは見たことあるクロスカントリースキーでしたが、こんな起伏のある広いところをあの細い板で滑るのか、、、、とオリンピアンに敬服し、そして、大変なところに来てしまった感であふれていました。
このころには、交通機関や会場の準備はかなり進んでいましたが、まだ、ボランティアの最終シフトは決まっておらず、宿泊場所問題も解決していなかったと思います。
そして、この後、大量のボランティアキャンセル問題が勃発したのでした。