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汝、隣人を愛せよ。

これは、2010年6月に、mixiに載せた日記です。埋もれさせておくより、再度あげて伝えた方がいいと思ったので、移植します。ヒラタさんが生きていたら、101歳。100歳まで生きていたいと言っていたので、生きておられるといいな。

本日も京都府南部まで住民健診に行って来ました。
昨日から2診体制になったおかげで、素敵なお話を聞くことが出来ました。

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ヒラタさんという、大正6年生まれの92歳のおばあさんでした。
でも歩き方も矍鑠としていて、とてもそんな歳にも見えず、綺麗にお化粧も。
子供たちが手元を離れていってもなお、故郷鹿児島に住んでいたそうです。
でも、昔ながらの武家屋敷は広く、近所のお友達が孤独死されたそう。
亡くなってすぐではなく、臭いがしだしてから周りが気付いたと。
自分はそうなるのは嫌だと、同じく1人暮らしをしていた娘さんのところに、
身を寄せるために京都に来たといっていました。数年前のことです。

ヒラタさんは、鹿児島県姶良市というところで生まれ育ちました。
ヒラタさんによると島津家は隠れたプロテスタントが多く、
武家の家はみなプロテスタント、町の人は仏教だと言っていました。
幼いころから教会に通い、外国人のシスターにいろいろ教わったそうです。
シスターはまず、

「誰も見ていないからといって悪いことをしてはいけない。
神様はいつでも、どこでも、絶対に見ているのだから。」

と教えたそうです。
そこで、ヒラタさんの中には「救い主、イエズス・キリスト」が根付きます。
マリア様は選ばれた女性だけど、救い主はイエス様だと言っていました。
だからこそのマルティン・ルターの宗教改革だったのだと。
(ま、あのころのカトリックは堕落しきってたのでそれだけじゃないと思うけど。)

8人兄弟の6番目、祖父が医者の医者家系だそうです。兄も医者が数人。
もちろんそのころでは恵まれた家だったので学校も通いました。
汽車に乗って、女学校に行ったと言っていました。
兄が遅くまで勉強しても、別の部屋で起きていて見守り、
それでも朝5時から2升の米を薪を使って炊き、お弁当を作ったそうです。
そして、兄が音読するのを聞いて英語をカタコトで話せるようになったと。
明治生まれの女のに、すごいでしょと、ヒラタさんは自慢気でした。

「あなたたちは数年しか学校に行ってないけど、
 私は23年間毎日こうして生活をしてきたのよ。」

と、言っていたとか。ただ息子を医師にしたことは後悔したそうです。
「病人の前にばかり出る仕事だから病気にさせてしまった」と。
とはいえ長兄は数年前に97歳で他界したそうなので、病気で早死にした感じはなかった。
ただ何度も「結核」という言葉が出てきたので、関係あるかもしれません。

そして、年ごろになったヒラタさんは結婚します。
同じ鹿児島でも鹿児島市の人で、医科歯科を出たお医者さんだったそう。
まだ戦前です。2人は満州に行くことになったそうです。
ハルピンからまだ汽車で1時間ほど北に行く極寒の地で、
寒いときは零下40度にもなるほどの場所。2人は子供を2人授かります。

敗戦を迎え、満州北部では女子供だけ先に逃げることに、なったそうです。

旦那さんと別れ、赤ん坊を前に抱き、子供の手を引いて、
夏だったけれども着れる物は全部着て、リュックに子供の服を入れた。
全財産の300円を下ろして、そのお金だけを頼りにして。
ハルピンなんて汽車で1時間で行けるところだったはずなのに、
女子供だけ乗った汽車は危なく、「支那人の馬賊」に強奪に遭うので、
昼間は山に隠れ、夜間のみ汽車に乗ってハルピンへ行ったそうです。
10日もかかったと言っていました。

そこでの旦那さんとの別れは永遠の別れだったそうです。
ロシアへ連れて行かれて死んだ、
と言っていました。

ハルピンにはたくさんの日本人小学校があり、そこへ非難したそうです。
たくさんの日本人がひしめき合っていて、女子供ばかり。

ふと、縁の下を覗いたそうです。なぜ覗いたかは覚えていないそうです。
支那服を着た男の人がいました。でも、顔つきから日本人かもしれないと直感。

「あなた、日本人?」ヒラタさんは尋ねました。

「ロシア兵はいないか?」彼は答えました。

ロシア兵がいたら男は連れて行かれるからだそうです。

「出張でハルピンへ来て、ここへ逃げ込んだ。2日間飲まず食わずだ。」

聞いたら彼は「ウエシマヒデオ」さんという人で、
ウエシマさんにも妻と子供がいると言っていたそうです。
ヒラタさんは迷わず、その日支給されたトウモロコシを1本、縁の下へ投げ込みます。
夢中で食べたウエシマさんは、縁の下から出て来てヒラタさんと話をします。

そしてヒラタさんは、全財産の300円のうち、100円を彼に渡します。

「これをあげるから、絶対に生きて日本に帰って!!」

生きて帰ったら日本で再会しようと、約束したそうです。
ヒラタさんの旦那さんの実家は空襲で焼けていると聞いていたので自分の実家の住所を。
ウエシマさんは、三重県の実家の住所と、「ウエシマゼンジロウ」という父の名を。
お互い教えあって、別れたそうです。

それから、ヒラタさんの隣には子供を4人連れた女性がいました。
同じく、夫と分かれ日本を目指す女性でした。
環境も悪く毎日死人が出たそうです。毎朝死人を集めるトラックが来る。
その死体がどこに埋葬されるのかなんて、誰も知りません。
ある日、その女性の小学校4年生の娘さんが、亡くなりました。

「先生、その人なんて言って娘を荷台に乗せたか分かる?」

「ごめんヒラタさん、私には想像が付かないよ。」と言いました。

『親孝行してくれたね』って、言ったのよ。だから私忘れないの。」
ヒラタさんが言いました。4人も子供がいることが重荷だったのかもしれません。
その女性のことは推察しか出来ませんが・・・。

ヒラタさんは無事に日本に帰りました。姶良市の実家に戻ったのです。
ある日、「ウエシマゼンジロウ」さんから手紙が来ました。
立派な巻紙に、筆で書かれた巻物のような手紙だったそうです。
もちろん、ハルピンで100円を渡したウエシマさんのお父さんでした。

残念ながら、あのあと肺炎でウエシマヒデオさんは彼の地で亡くなったそうです。
でもヒデオさんは遺言を残し、ヒラタさんのことを書いておいたのだそうです。
それを無事に日本に帰れた奥さんがゼンジロウさんに届けて、手紙が来た。
そこから文通が始まったそうです。

あの時ヒデオさんがお父さんの名前と実家の住所を送ったのは、
もし自分が死んだときに妻と子には新しい夫が必要かもしれないと、
思ったからかもしれません。とにかく連絡はゼンジロウさんからでした。

ゼンジロウさんは伊勢で取れたお芋を送ってくれたそうです。
ヒラタさんは、お返しに4kgもある桜島大根を送ったといっていました。
ゼンジロウさんは三重では珍しい桜島大根を、
小学校に持って行って、小学生に見せてあげたそうです。
そうして文通が続きます。

ある日、三重からの旅行の集団が駅にいるとヒラタさんは聞きつけます。
慌てて、鹿児島駅に走ったそうです。でもその当時の鹿児島駅は貨物駅。
駅員さんに、人が乗ってるのは鹿児島西駅だと言われて、走り直す。
人ごみの真ん中に立って、大声で叫んだそうです。

「ウエシマゼンジロウさんはいますかーーー!!??」

本当に真ん前にいる人が、「私です。」と言ったそうです。
「あなたは、こんなに若い人だったんだなあ」と言われた。
(その当時のヒラタさんは20代後半ぐらいで、若かったので。)
自分だっていつ日本に帰れるか分からないのに、
全財産の1/3を渡してくれるような人です。年配の方と思ったのでしょうか。
その後も、今も。やりとりは続いているそうです。
もちろん今はゼンジロウさんではありません。ヒデオさんの妹さんだそうです。
「兄から全て聞いていますから」と。
季節が変わるにつれ手紙のやりとりを続けているそうです。

ヒラタさんはひとりで子供を育てます。
あのころ、仕事のある女性は看護師か教師だけだったそうです。
生保のセールスをしたけど向かず、POLAの訪問販売で育てたとか。

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「先生、私ね。毎朝ちゃんとお祈りするのよ。
 今日も元気で目をさまさせてくださってありがとう、って。」

「1日に1人で良いから誰かの役に立ちたいと思うのよ。
 お金に困っている人がお金で幸せになれるならあげたって良いのよ。」

「寝る前にも必ずお祈りするの。まだまだ人の役に立ちたいから、
 どうか元気で100歳まで生かしてください、って。」

「愛って何かって考えるのよね。教会で聞いたの。
 そしたら、愛は慈しんで許すことだって。難しいですよね。隣人を愛すの。」

「でも聖書にも書いてあるの。ヨハネの・・・(失念。無念。。)」

私がカトリックで教会に行くと話すと手を握って喜んでくれた。

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「ヒラタさん、ここで話すだけじゃなくていろんな人にこの話したら?
 もうかなりの人が亡くなっているし、今しかできないよ?」
「人は絶対死ななきゃいけないけど、それまで生きる権利を神様がくれてるよね。
 ヒラタさんはそれを伝えていくのが使命じゃないかなあ?」

何回か、言いました。でも少し寂しげに。

「今の人たちはね、聞いてくれない人が多いのよ。」

でも、こうも言っていました。

「あなたぐらいの歳の女の人が、ヒラタさん、本書いたら?っていうの。
 昔ね、言われたの。でも私、昔から文学は苦手なのよね。
 数学はね、好きだったの。答えがひとつに決まるでしょ。」

聖書を暗唱できるくらいに、こんなことが言えるくらいに知性のある人なのにな。
私がこうやって書いたって、ヒラタさんの直接の言葉の半分の説得力もない。

でも、私はこの話を1人で胸の中に仕舞っておくなんて出来なかった。

「ヒラタさん、この話、たくさんの人に話してあげても良い?」

そうしたら、快諾してくれました。だからこの日記を書きました。
何かしら伝わるものがあったら嬉しいです。

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教会で聞いた話に、こんな話がありました。

「神様が人間に与えた最大の試練、罪の償い。
 それこそが『汝、隣人を愛せよ』である。」

隣人とは、家族でも友達でも知り合いでもない人のことです。
言うなれば、敵すらも愛せということ。

ヒラタさんの言葉を借りれば、敵すらも慈しみ許せということ。
それほどむずかしいことは、ないです。

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そしてヒラタさんは私にこう言いました。

「先生。人を憎んだり嫌ったりしちゃダメよ。
 言葉にしなくても思ってもダメ。私はそうやって生きてきたの。」

92年間の人生に誇りがあるからこその言葉です。
最近疲れてたけど、ヒラタさんに会えて愛をもらいました。
袖が触れ合っただけの縁です。健診の受診者と、医者なんて。
でも、たくさんのたくさんの大きな愛をもらった気がしました。

でも最後に、また会えるかしら、と考えてくれた。
「来年の健診で会いましょう。」と、伝えた。
「そしたら1年元気でいなくっちゃね。」と笑って、さよならした。

私はヒラタさんの壮絶な人生を的確に本にすることは出来ないけど、
それでも感じたことを文字にしてネットに載せて多くの目に触れさせることは出来る。
来年も元気で、またあの笑顔を見れますように・・・。

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