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生かされるを学ぶ
少し暖かさを感じるようになった秋田の5月。人生初の渓流釣りに連れて行ってもらった。
朝4時半に待ち合わせ、馬場目川の源流に向かって車を走らせる。
5月のせいなのか、朝が早いせいなのか、虫もまだ起きていない。木の枝に釣竿を引っ掛けないように必死だった。
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とても心地よい
自然の中に溶け込ませるよう川上から流した餌に食いついたのは、一匹の岩魚だった。初めての魚は思ったよりもあっけなく釣れてしまって。そのことに拍子抜け、というか驚いてしまった。
「魚を釣る感覚をもっとちゃんと知りたい」と思ったのだけど、残念ながらその後、魚たちは私の餌を食べてくれなかった。
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この日の釣行で唯一、私の餌に食いついてくれた岩魚に愛着が湧いてしまった。この子を岩ちゃんと名付けよう。
さっそく岩ちゃんを川べりで捌く。
お腹にナイフを入れてスーッと割いて内臓を取り出す。それでも時々バタバタと動く生命力に驚かされるが、集中して岩ちゃんの命と向き合う。
川の水で洗って血筋をとる。もう機能は死んでいるはずなのに。それでもまだ動いて逃げようと諦めない岩ちゃんを手でギュッと押さえつける。
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美味しく食べられるらしい
死ってなんだろう。
すごく曖昧な、淡い色の移り変わり。一方で、白と黒の世界でもある。生ぬるくてやわらかくて、一生懸命にまだ生きようとしていた岩ちゃんと、目の光を失って横たわったまま動かない岩ちゃん。
そのコントラストを鮮明に覚えている。
れい と おん の起伏
山を降りて、家に帰ってきたのは10時。まだ昼食には早いので冷蔵庫に岩ちゃんを寝かせておいた。
バタバタとその日の予定を消化しているとグーッとお腹が空いてきた。
「岩魚は塩をぬってグリルで焼くと美味しいよ」と教えてもらっていたので、塩をぬろうと思い冷蔵庫から取り出す。
まな板にのせようとした岩ちゃんは氷のように冷たくて、かたい。
一気に恐怖が押し寄せる。
母に手をとられて、亡くなった父の額に触れた時の感触がフラッシュバックした。
そこでハッとする。もう岩ちゃんはこの世にいないんだ。魚も人も死んでしまったら、同じように冷たくかたくなるんだ。この冷たさやかたさは、何にも形容し難い。居なくなるものの質感というのだろうか。
怖い、ちょっと気持ち悪い。
そんな気持ちを抑えて、塩をぬり魚焼きのグリルの中へ。焼いている間に茄子で味噌汁用と甘辛焼きを作った。前日に仕込んだコシアブラ(漉油)の炊き込みご飯もなかなかよく炊けた。それらを食卓に並べる。
さあ食べよう。
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普段、私は魚をあまり食べないので、岩ちゃんの食べ方に戸惑っていた。
お腹の方からガブっと。下ひれが口内に刺さった。痛い。
噛んでみる。苦くない!ふわふわの身が柔らかくて美味しい。
骨まで食べられるのかなと思って、またガブリとしたけれど、痛かったから丁寧に骨をとっていただいた。
苦い川魚を食べたことがあって、下処理のせいだと思っていたから、上手くできたんだなとなんだか誇らしくなった。
食べている途中で、岩ちゃんに「いただきます」を言ったか不安になったので「いただいていますよー」って話しかけた。いま思うと変な人だ。
岩ちゃんをすっかり食べ終わって、コシアブラの炊き込みご飯に移る。じんわりと香るコシアブラの風味が絶妙で、本当に美味しい。
色んな意味で「贅沢な食卓だな」と思った。
生かされる命
草木を分け入って渓流の中に入って、息を潜めながら岩魚を釣り、捌く、調理する。その一連の時間を流れるように暮らしの中に存在させることができるからこそ、生の儚さと死との曖昧さ(=移り変わり)を感じることができたんだと思う。
生も死も、わたしたちの日々の暮らしの中にある。その事実は都市に住んでいても田舎に住んでいても変わらない。都市に住んでいたかつての私はそのことに気づくことができなかったかもしれないけれど、いまは少しだけ分かる気がする。
私の一部と岩ちゃんが物質レベルで置き換わっていくんだとしたら、私が岩ちゃんになるということでもあるのかもしれない。生きる、死ぬ、食べる、生かされる。
「生きるを学ぶ」ためにここにいるけれど、「生かされるを学ぶ」なのかもしれない。そんなことを思った5月のとある一日だった。
ごちそうさまでした。岩ちゃんありがとう。