何かを明確に定義することの弊害

議論や決め事をするうえでも何かしら目的や目標を定める時も、
大事な、譲れない思想や理想を構築する時などにも、
きちんとした定義付けを行うことは重要。

定義しておかないとそもそも何を考えているのかが曖昧になり、
その後の言動等もちぐはぐだったり迷走したり。

実際に行動して現実との摩擦や軋轢にさらされ、
崩れた時にうまく立て直せなかったりする。

現実は流動的であらゆる要素の相互関係、作用によって成り立ちますが、
認識力、情報処理能力に限界がある人間は現実の一部を切り取り定義し、
ある程度、現実を単純化しなければブレずに動くことができない。

ですから繰り返しになりますが定義付けをすることは大事、
大事ですがきちんとした定義付けを行うためには、
その弊害もきちんと理解しておくことが重要に思う。

定義付けは確かに物事を明確にすることで分かりやすい形にできますが、
現実の一部を切り取り固定化することでそれとそれ以外に、
明確な線引きをしてしまうという特徴があります。

例えばある物事を善や正義と定義して固定化したとしたら、
そこに含まれないものは不善、不正義となり、
反するものは悪と定義されることとなる。

自分が意図しているか否かに関わらず何かを定義するということは、
定義したものを絶対的に正しいという前提に置いたとしたら。

定義に含まれないものすべてに対し強制的に、
正しくないものと定義することとなる。

例えば議論であれば当然、意見が違うから議論が起こるわけですが、
自分の意見を正しいとすれば強制的に相手の意見を間違っていると、
そのように定義してしまうこととなります。

議論対象が客観的に絶対の正しさが保証される類のものであればともかく、
いくつか選択肢があるようなものである場合。

間違っている、正しくない、悪だと定義されてそれを素直に受け入れる、
おっしゃる通りあなたが正しいなどと言ってくれる場合はそうない。

結果、対立し時に争いが起きたりすることとなるわけです。

物事を定義し明確にすることが必ずしも良い結果をもたらすわけじゃない、
現実という流動的なあり方の中ではむしろ絶対的な正義とかの方が珍しく、
大抵のものは移り変わるものですから定義することが不要な執着等を生み。

思考を固定化させ変化成長の機会を奪ったり、
自他との軋轢を深め状況を悪化させたりする。

故に何かを定義する時は細心の注意を払わなければならないと思う、
特に自分以外に共有するものであるならなおさら。

そして、大抵の物事は定義せず曖昧化しておく方がむしろうまくいく、
絶対に譲れない部分、核となる重要な部分などはしっかり定義して、
それ以外のことには良い意味でいい加減である方が柔軟であれる。

そういう考え方をすると現代は何でもかんでも定義しすぎ、
定義して自分が正しいんだと執着し過ぎな傾向があると思う。

先にお話したように現実とは流動的なものであり、
絶対的な正義とかの方がむしろ珍しい。

あらゆる人間が集まる社会や国という共同体において、
ある個人、ないしは少数集団の定義が絶対的に正しい、
しかも普遍的であるとかほぼあり得ないでしょう。

膨大な人間という要素の関係性、作用の仕方によって、
様々に形を変えてくもの。

そんな状況の中で何でもかんでも定義して線引きし分断する、
そして自分達に善や正義、優秀などと定義し。

無自覚に、あるいは意図的にそれ以外に対し、
真逆の性質として定義付けする。

それは定義することによって現実をより良く見えるようにしようとか、
限界がある中で最善の意思決定や選択をするなどのためのものじゃなく。

ただただ自分だけが正しいと主張したい強烈なエゴイズム、
あらゆる存在が成立する現実で自分だけが常に正しくありたいという欲求。

ストレートに言ってしまえば流動的で多種多様なあり方を認められない、
自分の欲求等が受け入れられないことに癇癪を起す幼稚さの表れ。

そのように思う。

冒頭でお話したように定義付けすることは大事と言うより、
現実を生きるうえである程度は必須である。

だけどそれは自分の正しさを自他に押し付ける手段にもなり得る。

そのことを心得たうえで活用していきたいと、
そのように思ったというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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