差別問題が手段になると差別を生み出すようになるという仮説

X(旧ツイッター)でブルーカラーに対する発言が差別的だとして大炎上していた。

ざっくり流れをまとめるとエアコン修理業者に対する発言が、
差別的なものだとして炎上する。

それを弁明する形でいくつかポストを投稿するもそれがまた、
別のブルーカラーに対して差別的と見なされ火に油を注ぎ、
エアコン修理業がブルーカラー全体にまで波及炎上した。

加えて、炎上のきっかけであるイシゲスズコ氏が普段障碍者などに対する、
差別解決のために問題提起や様々な指摘をしていたことが、
差別解決を言いながら自身は差別的な価値観を内包していると見なされ。

炎上騒ぎが収まらない事態となった。

なお、現在イシゲスズコ氏はアカウントを削除しているため、
きっかけとなるポストは見れなくなっていますが、
以下のポストがざっくり流れをまとめてくれています。

で、ここで触れたいのは一連の流れの中でもよく言われていたこと、
差別問題解決を目指しながらなぜ自身が差別的な言動を、
客観的に見るとそう見なされるような言動をしてしまうのか?

むしろ差別撤廃などを掲げる人、ないしは集団の方が、
しばしば差別主義者のような価値観を有している。

そう捉えられやすいように見えるのはなぜなのかについて、
個人的に考えたことを少しまとめてみたい。

結論から言うなら差別のない世界を『目指す』のであれば、
常に差別ある世界でなければ不可能だからだと思う。

当然ですが差別を無くすには無くすための差別がなければいけない、
差別のない世界に差別問題はあり得ないからです。

問題なのは差別を無くすという行為や思想等が自分自身にとって、
あるいは人生を歩むうえで不可欠なものに食い込みそれに依存した時。

例えば差別問題への言説等を大きな生業にしているとか、
差別問題に向き合う自分という枠組みに自尊心等を依存してるとか、
現代だとSNSで注目を浴びるために差別問題が効果的だからとか。

そういう場合、差別問題が本当の意味でなくなることは、
むしろ自分自身にとってマイナスとなり得る。

仕事や精神的支柱等が失われるということになりかねない。

故に、逆説的ですが差別問題を解決しようとする自分ないしは集団を、
維持するために差別ある世界観を生み出し続けるようになるのではないか?

時に難癖のような指摘で差別という属性を付与してそれを叩くような、
自作自演のようなことをするようになっていくのではないか?

結果、常に差別という属性を付与できるような物事を見つける視点が育つ、
あらゆる物事を差別的に見るようになってそれが別の方面にも適用され、
差別的な価値観を内包するようになるのではないかと思う。

端的に言えば差別問題解決を目的としてきちんと定めている人と、
ただの一手段となってしまっている人とでは、
実際の方向性が真逆になりやすいということです。

差別に限らず何かに依存するとそれを失わないように、
様々なものを捻じ曲げる必要に迫られることがあると思います。

依存とはつまり自分という存在が成立するために、
自分以外の要素を強く必要とする状態だからです。

自分の外の物事は自分の状態に関わらず常に流れ変化していくものであり、
しかしそうなると依りかかるものがなくなるために、
現実に対する認識を捻じ曲げるか。

あるいは現実のあり方を捻じ曲げて自身に合致する状態を生み出すか、
どちらにせよそうなれば現実と自身の認識の間に齟齬や軋轢が生まれる。

それを自分や自分が所属する集団、包括される概念などの力により、
現実やそこにある多くの他者等に押し付けられるのであれば。

後に様々な負の影響が表れど一時期的にであれば、
現実の方が一部であれ無理やり変化してくれることもある。

だけど、それができなければ現実から弾かれるだけでしょう。

自分を成立させるために自分以外を必要とする状態は、
よほど運が良くでもない限りいずれ限界がくる。

もし今ある資産などが全て失われて残るのは自分の身1つで、
また1から新しく何かを築いていくならという問いがありますが、
この時に具体的な方向性を即座に定められる知識や情報。

再び何かを積み重ねていく、その過程で受ける負荷も、
きちんと乗り越えていける意志の強さなど。

せめて自分1人で立ち続けることぐらいはできる何かを、
きちんと育んでいきたい。

現実において自分が自分1人の力で生きていくことはできず、
より大きなことを成そうと思えば思うほど自他の力が必要になるからこそ。

現実と捻じ曲げた関係ではなくまっとうな関係を築けるように、
できることはしていきたいと。

そう考えさせられたというお話です。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。

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