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人の持つ最大の能力を奪っていく幼少期の教育の弊害

幼少期の教育がその後の人生に大きな影響を与える大事なものというのは、
誰であれ少なからずそう思っているでしょう。

ですが、実際には大半の人が思っている以上に与える影響が大きい。

というのも、人は意識しているかどうかに関わらず繰り返した物事、
経験や知識や情報等を無意識に刻み込むというのはよくお話すること。

刻まれたものは価値観や思考傾向に大きく影響してくる。

特に幼少期のようにまだ余分なものがほとんど刻まれてなく、
かつ意識が未発達で自制心なども未熟な状態というのは、
受けたあらゆる影響を真綿に水が染み込むように無意識に刻んでいきます。

じゃあ、そんな幼少期に大きな影響を与えるものは何かといえば、
よほど子育てがうまい両親に大事なことを全て教わってきたとか、
衝撃的な経験等をしたことがあるなど。

一般的な基準から離れた何かの要素がなければ、
学校教育がもっとも影響力があるわけです。

単純にそこに所属する時間が長いからですね。

一日の大半を学校で過ごす時間が一年の大半を占めるため、
学校から多くのものを無意識に刻まれることが多い。

以上をふまえてここからが重要なんですがほんとに一部の例外の学校や、
あるいはよほど人間的に優れた教師に出会うなどがない限り、
あらゆる人が等しく学校教育から受ける影響があります。

与えられた枠組みの中で思考することを学ぶのです。

というのも、学校教育に共通するのが授業を受けて、
テストを受けて評価が決まるというシステム。

授業の中で詰め込んだ知識を確かめるという意味合いが強く、
定められたカリキュラムの範囲を超えて広がることはあまりない。

テスト自体も基本的には明確な答えが存在する形式ばかりで、
中には答えを出す過程まで決まっているようなものがある。

つまり、ある与えられた範囲と選択肢の中から答えをみつけること、
決められた枠組みの中で思考し明確な答えを導き出すこと、
これをもっともうまくおこなった人が高い評価を受けるのです。

加えて、学校でいい評価を受ければ両親も喜んで褒めてくれるだろうし、
逆に悪い評価を受ければネガティブな反応をされることが多いでしょう。

周囲の反応も学校の評価で変わることが多い。

そういった経験から決まった枠組み内で思考するということが、
正しく良いことなのだと無意識に刻まれていく。

それが成長し大人になっても影響を与えるのですね。

で、この決まった枠組み内で思考するという考え方は、
人間が生まれながらに持つとされる最高の能力を奪っていく。

それは現状の知識等から世界を広げて可能性を探っていく能力、
帰納思考とかアブダクション推論とか創造力とか、
言い方はいろいろありますがつまりは自ら枠を見出す能力です。

人以外の動物はそもそもこういった能力を持つことができない、
人だけがしかも生まれた時から持っているという説が現代では有力。

そのおかげで例えばゼロから言語を習得したり、
新しい技術や思想等をどんどん生み出して、
より良く便利な社会を構築することができた。

だけど、こういった新しいものを生み出す人ってほんの一握りで、
大半の人は誰かが作った枠組みの中で生きていくしかないことが多い。

ちなみに、余談ですが枠組みを自分から生み出せる人と、
与えられた枠組みの中で生きている人ってわりと簡単に見分けられる。

例えば、ある仮説とか考え方に対するよくある口癖として、
明確な証拠は?とか根拠は?を繰り返すのは大抵後者。

仮説って文字通り仮の説なのでそもそも結果が出てない場合が多いため、
明確な根拠や証拠って存在しないんですよ。

現状から考えられるであろう妥当なものを生み出すのが仮説であり、
補強する要素として証拠とか根拠をあげることはできるけど、
それも粗を探そうと思えばいくらでも探せる。

ようは、仮説っていうのはどこまでいってもグレーなもので、
どの程度妥当であるかという基準で考えるしかない。

この妥当であるかというグレーな状態で物事を考えるということが、
与えられた枠組みで考えることに強く影響された人には難しい。

枠組みには明確な答えがあることが前提だからです。

そのため、グレーであるということに大抵の場合は耐えられないから、
明確な根拠や証拠があれば正しい、なければ間違いという、
両極端な考え方におちいってしまうわけですね。

加えて、どれだけ杜撰な根拠や証拠でもそれが正しいと信じ込む、
あるいは信じ込まされてしまえば突拍子がなくいい加減なものでも、
それは明確な真実だと信じ込んでしまう傾向もあります。

繰り返しになりますが誰でも生まれた時は枠組みを見出す能力を持ってる。

なのに成長していくにつれてその能力は失われていく、
与えられる枠組みを待つことしかできず大抵の場合、
両極端な思考傾向におちいってしまうのはなぜか?

先に話したように幼少期に受ける影響によって枠組みの中でのみ、
思考し答えを探すという制限をかけられたことが原因だと思うのです。

誰もが個人差はあれど新しいものを生み出す力を持っているのに、
幼少期に受けた影響がその能力を奪っていく。

そして、そのことを意識することすらできないことの方が多い。

無意識という意識できない思考傾向を分析するには、
自分の意識外の思考という領域まで枠組みを広げる、
意識できるものからその外を見る必要があるからですね。

と、いろいろお話してきましたがとりあえず意識してみてほしいのは、
人はゼロからは難しくても何かをきっかけに自分で思考の枠組みを見出し、
自分独自の思考とそれに伴う結果を生み出していく能力が少なからずある。

だけど、幼少期に特に学校教育で高い評価を受けていたような場合ほど、
そういう能力に無意識に制限をかけてしまうということ。

それは、時に大きなマイナスの結果を引き寄せることもある。

例えば命が危ないかも知れないという可能性があって、
だけどそれはあくまでも仮説で明確な根拠も証拠もない、
だけど現状から考えれば妥当だと思えるような場合。

枠組みを生み出せる人ならその妥当性を評価したうえで、
何かしら対策等を講じることができるでしょう。

だけど、明確な根拠も証拠もないなら信じないという人が、
もしその証拠や根拠が示された時。

つまりは命が危険にさらされた時ってもう手遅れなわけです。

これは命みたいに重要なものではなくとも、
あらゆる物事において同じことが言える。

なので、誰であれ与えられた枠組みで思考する傾向の可能性がある、
自分にそういう思考傾向はないかというのは少し意識して探してみる。

もしあると思うならそれは無意識からくる影響であるということを、
自覚できるだけでも大きく思考の制限を解除してくれますので、
頭の片隅にでも置いて時折実践してみてほしいと思います。


では、今回はここまでです。
ありがとうございました。


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