JOJO広重「また逢う日まで」読後

 年末から年始にかけては、JOJO広重さんの新刊「また逢う日まで」を読んだ。広重さんのバンド「非常階段」については詳しく書くと長くなるので、ご興味があればググっていただきたい。なお90年代前半に活躍していた関西の女性漫才コンビ「非常階段」は、バンド名から頂戴したと聞いている(真偽は分からないが)。
 
 以下誤解を承知で。
 前にもツイッターで書いたけれど、この本は、広重さんの60数年の人生におけるたくさんの「別れ」(その対象は人間だけとは限らない)の記憶1つ1つにつけた墓碑銘の集合体だと感じる。私は4歳下だが、そうした清算のような作業をしたいという気持ちになることは、近年よくある。
 それにしても、広重さんの記憶の詳細さと、記されている1つ1つのエピソードの鮮明さはどうだ。自分には、これほどハッキリと回想できるシーンは数えるほどしかない。自分の記憶力の無さ、日々を刻み込むように生きる丁寧さの欠如はさておいて、いかに自分は平々凡々、波風のないというか、感動の薄い人生だったか、ただ惰眠を貪ってきただけだったのかを思い知らされて、他人の記憶を覗く愉しみよりも、何やら惨めさに近い感情に落ち込むことも多々あった。
 
 そんな私だが、広重さんが幼少期に見てきた物事のいくつかは共通体験として持っている。特に「泣いた赤鬼」は、私は最も泣ける物語だとずっと思っていたので、これが取り上げられていたことに感激。今でも、小学校に上がる前にすべての子供たちに読ませれば、人生が曲がることはないのではないかと半分真面目に考えている。
 「切手収集」「プロレスごっこ」などは昭和の子供たちで終わった遺物だろう。私の実家の近所にあった、個人経営の古びた煙草屋が切手も扱っていて、新しい記念切手が出ると勇んで買いに行っていたこと、そのとき、店番のおばあさんに頼んで切手をしまってある棚を見せてもらうと、隅に、売れ残ったまま放置されていた数年前の記念切手を発見して小躍りしたことなど、読まなければ思い出すこともなかったであろう記憶を揺り起こしてもらえた。もちろん額面の金額で購入し、通販で買う値段の何十分の1で入手できたことにほくそ笑んでいたのだけど。
 プロレスごっこは、昭和40年代中期は事故で亡くなった子供も出て社会問題となりかけていた時期だった。私の小学校でも禁止されていたはず。プロレスに熱狂していた私は、確か小学2年生のお楽しみ会で、友達とやらなければいいだろうと小狡い考えを回して、馬場VSサンマルチノの一戦を「独りプロレス」で再現するという、自己満足この上ない出し物をやってしまって、同級生をポカンとさせたものだった。今でも尻がこそばゆくなるような恥ずかしさ。まあまあおちゃらけていた子供だったのだ。
 
 自分語りから話を本題に戻して、「武藤さんのこと」のように回収されて読後感の暖かくなるものもあれば、「Aくんのこと」のように回収される機会を失い、古い傷として残り続ける話もある。それぞれがミニドラマのように映像が立ち上がって、まるで自分の体験と錯覚させられるほどの染み方を伴って読ませてもらった。
 音楽についてのページは、もう私が非常階段を聞き出してからのことや、ノイジシャンとしての広重さんの周辺情報で知っていることが大半ではあったのだが、本当に不思議で、今もまだ分からないのは、これだけ異性にもモテて、友達も多かった広重さんが、なぜキングオブノイズになったのかということだ。もちろん分かる必要もないわけだが、私が勝手に情念の発露と決めつけているだけで、まだ非常階段のノイズの豊潤さをつかみ切れていないだけなのかもしれない。
その豊潤さというか懐の広さを、非常階段についてあまりご存じでない方にも分かりやすく伝えるとするなら、あのちゃんやファーストサマーウイカ(2人とも有名になる前)、あるいは綾小路翔(少年時代に聞いていとのこと)らと共振して、彼らの中にもある程度の種子を残している・・・と書けば、少しは通じるかもしれない。
 
 勝手な駄文の締めは、安直な引き合いになるが、やはり井伏鱒二が于武陵の漢詩「勧酒」につけた訳「サヨナラだけが人生だ」そのものということになる。私はこの訳を寺山修司経由で知った。
サヨナラを重ねることは、新しくなることと表裏一体であり、終わりを意味するとは限らない、だから60になろうが70になろうが、別れの密度が疎らになるだけで、死ぬ瞬間まで続いていくのだという、ありがちな結びで締めたい。これではまるで薬師丸ひろ子のヒット曲の歌いだしのようではあるが(苦笑)。
 
 
 

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