私がnoteをはじめた理由。
私がnoteをはじめた理由。
自分らしい生き方ってなんだろなーと模索しているとき、とあるイベントに参加した。隣の席に座ったふわふわ髪の女の子に「自己表現の場がほしい」と相談したところ、こんなのがあるよと教えてもらった。
しかも記事を拝見すると、ツイッターやfacebookなどでは見えてこない本音や熱を帯びた文章が、読んでいて本当に面白いし、個人的にも興味深い。
この真っ白な空間は私のもの!と思うと、ワクワクが止まらない。SEOに縛られることもなく、このネタはちょっと一般ウケしないから、という理由で書き直す必要もない。そんな夢のような場所があるのかと、ちょっと感動した。もちろん、お金をいただいていないから出来ることなのだけれど。
自分の言葉で綴られる場所があると、気持ちが整理され、もやもやした霧が晴れていくようにクリアになってくる。自分と向き合う大切な場所になればいいなとも思う。
もう一つ理由がある。
コピーライターの糸井重里さんが主宰している「ほぼ日」。1998年6月6日から1日も休まず更新しているウェブサイトで、糸井さんが日替わりエッセイを書いているのだけれど、この文章が妙に心に刺さった。(相当古いエッセイで、この頃は、毎日消えて毎日消えていくコンテンツだったらしい)
たまたま、このところ、
「ほぼ日、毎日よく書くことがありますね」
と言われることが多かったので、
じぶんでも「そういえばそうだな」と思いました。
‥‥とね、こんなふうに書きはじめることが、
毎日なんとか続くコツなのかもしれません。
「ほぼ日」をはじめたばかりのころは、
ほんとに困ってしまいました。
窓の外をぼんやり眺めながら、
「なんか書くことないものかなぁ」と、
書くことがやってくるのを待っていました。
それは雨ごいのようでもありました。
でも、それは「来ない」。
だって、じぶんがじぶんの手で書くものなんだから。
待ってなければ、「来る」ことはあるんですけどね。
待ってるところには、「来ない」です。
じゃ、どうすればいいのかがわかったのは、
何年か過ぎてからだったような気がします。
ひとつは、「じぶん」が書くしかないとわかったこと。
もうひとつは、「いいこと」なんか書くなよと、
じぶんに教えてやれたこと。
たいしたことない人間だから、
たいしたことないことを書く。
それ以上のものに見てもらいたいなら、
それ以上の人間になるしかない。
こんな当たり前のことがわかるまで、
けっこう長い時間がかかるんです。
しかも、いまでも、たまに欲がでたりしてます。
「梅干し酸っぱかった」でも、かまわないんです。
「梅干し酸っぱかった」という話を、どうするか‥‥。
どうしょうもない、と思ったら、それはボツ。
そういうことを、毎日やっていくというわけです。
コツとも言えないけれど、そういうことなんですよね。
あと、たぶん、ぼくは「おしゃべり」です。そうでないと、続かなかったという気はいたします。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
ま誰も、毎日なにか書きたいなんて思ってないでしょうが。
そうか。
結局、人間性ってどう足掻いても文章に滲み出るものだし、それなら未熟者らしく等身大の自分で書こう。という結論に至ったわけです。
ちなみに、最近ほぼ日の記事で面白いと思ったのは、こちら。
まだ社会という大海原に乗り出す前の、隠しきれない自信と不安が入り混じったこの感じ。たまりませんね。