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3.11

2011年3月11日14時46分に東日本大地震は発生した。マグニチュード9.0の巨大地震は観測史上最大級の地震で、高さ10メートルを超える津波が襲い、12都道県で、死者1万5,859人、行方不明者3,021人に上った。

今日(2024年3月11日)はその日であり、昨日から行事等もあっているようだ。マスコミも関連報道を続けている。

亡くなられた方々とその遺族の皆様に深い哀悼の意を表します。また、いまだに行方不明の方々もたくさんいて、ご家族やご友人たちの心中を察するといたたまれず、お見舞い申し上げます。
一方で、世界中から尊敬されるほどの復興には皆様の並々ならぬ努力の賜物と存じます。

当日、私は東京で会議をしていた。港区赤坂1丁目の貸し会議室を取引先の方が手配してくれていた。5階建ての鉛筆ビルで、1フロアに1室というビルであった。その5階で取引先の方2名と私の計3名で会議をおこなっていた。
そしてその時間に大きな揺れが来た。一度目に間を置かず二度目もあったような記憶だ。とても立っていられず、床に座り込んでしまった。
壁から鉄骨がうなるようなギーギーという音が聞こえ、これは半端ではないと感じた。
少し揺れが収まったところで、エレベータは使えないので、外階段で降りる。外階段は手すりが腰より低い位置で、とても不安だった。
なんとか下に降りた。外堀通りから一本裏に入った路地で、数名が外に出ていた。
近くの虎ノ門にあるJTビルが大きく揺れていた。
取引先とは別れ、特許庁前の交差点に出ると外堀通りの中央分離帯に多くの人が避難気味に立っている。
古いビルのガラスが割れて歩道に落ちているのがあったが、おおむね他のビルは問題ないようだったが、余震が続いていて、皆、不安そうな表情で立っていた。
特許庁のビルは見るからに頑丈そうで、行ってみるとそこそこの人数がそこに避難しているようにも見えた。

ついに東京に地震が来たと思っていた。地下鉄も止まっているようなので、それから新橋まで歩く。当初いた空車のタクシーはだんだん少なくなっている。
小さめのキャリーバッグを引いて、20分ほど歩くと、新橋のSL広場前に出た。そこには大きなビジョンがあり、多くの人がそれに見入っていた。
画面には映画の一シーンのような大津波の映像が。仙台空港だと思う。
そのニュースで東京でなくて東北なんだと理解した。

それから、新橋駅のコインロッカーに向かう。しかし全部いっぱいで探しても空きはなかった。電話も通じない。宮崎の会社には通じず、銀座1丁目の友人の会社に向かい、固定電話を借りた。幸い固定電話は通じ、宮崎の会社に無事を告げ、東京の自宅に宮崎から連絡を試みてくれるよう頼んだ。
友人は広告代理店を経営していたが、割と楽観的で、二人で一杯やっていたら電車も動くのではという話になり、有楽町の料理屋に入った。
火が使えないというので、作り置きのものでビールをやっていたが、一向に電車は復旧せず、電話も通じないので、そろそろ帰ろうということで通りに出たが、タクシーはいない。いても実車中。
東銀座に出てみるも同じ、新富町まで歩くも、途中のコンビニから大量の水を運ぶ会社員や、ヘルメットをかぶって行列して歩いている会社員など異様な雰囲気にどんどんなっていく。

コンビニには食料等がなくなり、表の公衆電話に長い列ができていた。
二人はようやく重大さを再認識し、自宅にそれぞれ向かうこととした。彼は目黒、自分は荒川区だった。
キャリーバッグを引きながらの歩きは思ったよりつらい。歩道はけっこうでこぼこし、道路のたびに段差がある。
そしてなにより、狭い歩道に多くの人が歩いているわけで、これも異様な状況であった。昭和通りを北に向かい、日本橋、秋葉原、上野と歩く。途中に自転車屋があり、多くの人が列を作っていた。そこは高級な自転車の専門店で、10万以上の値札が見えた。
鶯谷に入ると、若い男性が、「避難所あります、根岸小学校」と書いたA4の紙を持って立っていたが、歩く人はいぶかしげに見ながら通り過ぎて行った。

私は在京時代にタクシーや自家用車で動くことが多く、ある程度の道路は覚えていた。西日暮里のコンビニで地図を買い求める人が多かったようだ。
すぐに品切れとなり、そこの店長が機転をきかして、1冊を残し、必要個所をコピーして渡していた。非常時だからしょうがないだろうし、電車でしか移動しない人には、点と点の情報しかないので、実際の道路がどうつながっているかはわかりにくい状況だったようだ。

西日暮里から自宅まで車で15分ほどなのだが、さすがにすでに4時間程度歩いていたので、疲れて公園で座ることに。
後で確認したら、新富町から西日暮里までは8km程度で、徒歩で2時間程度と網が、なにせ大勢の人が列をなしていたので、倍くらいかかったことになる。
足と腰がしびれていて、座って30分ほどすると少し楽になり、再度歩き始めた。携帯のショートメールが入るようになったが、発信は3時間前のものだった。

自宅に着くと、エレベータは動いておらず、余震も続いていた。歩行中も何度か余震を感じ、頑丈そうなビルの入り口に隠れたりもしていた。
5階まで階段を上り、自宅のドアを開けると家族が心配そうに出迎えてくれた。すでに深夜帯であったがみな起きていてテレビを見ていた。
火は使えたので食事を取り、ふろも入れたのでシャワーを浴びた。

今のテレビからは信じられない光景が次々に映し出され、空撮ではかなりの面積で燃えていてる気仙沼があった。たまたまそこに居合わせた漫才のサンドイッチマンが電話で状況を報告していた。

余震はそこそこ大きいのが続き、横になりながらも眠れずに一夜を明かした。自宅の魚の水槽から水がこぼれたくらいの被害だったが、心理的な面の方がダメージ大きかったと思う。

次第に被害が甚大であることがわかった。死者というより行方不明者がどんどん増えていき、塩釜の友人たちの顔が浮かんだ。

震災から7年後に塩釜に行った。友人たちは無事だったがその時の被害やその復興に相当苦労したのがわかった。彼らが小学校など遺構となっている場所を案内してくれた。あらためて今回の地震、とくに津波の怖さを知らされた。

だんだん記憶もあいまいになってきたが、いろいろと思い出した今日であった。

追記
これを読んだ友人から武勇伝にも読めると言われ、たしかにそう取る方もいるかと。
この日の私の苦労は、思い出してもつらい経験だった。
でもその何十倍何百倍の恐怖と苦しみ、辛さを経験された方たちがたくさんいることは理解しているつもり。

今、能登の人たちもそれに直面されている。そのことも肝に念じなければと思っている。

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