閑話シリーズまとめ 前編
・或いは辺境に住まう魔女の恩寵と悽愴
首都から湖を越え、月齢も五周を数えた頃だった。
旅路は着実に進んでいると思われた。
首都の物資問題は日毎に深刻さを増し、戦禍も激しさを増すばかりで、状況は、わたしみたいな取り柄の無い末端兵士が辺境に送り出されるにまで至った。
わたしは旅好きだが、こんなかたちで首都の外を巡る未来からは目を逸らし続けた。陛下勅命のこの任務がわたしに回ってきたあの瞬間が、今でも目に焼き付き離れない。着実に進む旅路ではあるが、ゆえに気楽さとは真逆の、過酷な旅である現実は言うまでもない。決して、目的地は観光地などではないのだから。
食料の枯渇、悪路、敵対種族の集落、前日の大雨で氾濫した黄土色の河川。困難は常にわたしの前進を拒んだ。
そうしてその日、わたしは名も知らぬ、拳ほどもある巨大な飛ぶ虫たちに纏わり付かれ、我も失い森の奥へと逃げ込んだ。
そこでわたしは「魔女」と出会った。
魔女の周りには、わたしに纏わり付いた巨虫たちが飛んでいた。
あんなにも恐れた虫たちを、わたしは宝石でも眺めるみたいに食い入るように見入っていた。
魔女は言った。
「あなたが求める"すべて"をあげよう」
わたしは、魔女が発する得も言われぬ雰囲気に飲み込まれていた。
「だから、あなたの"すべて"をもらうね」
わたしに選択権は無かった。
だからわたしには、頷く以外の何をも許されていなかった。
・或いは魔女たちの集落
「私たち魔女は、夢を見ることができないの」
道中、魔女はわたしにそう言った。
「だって魔法という夢を体現する私たちが浸れるなら、それは目覚めている状態とどう違うのかしら」
わたしには魔女の言葉の意味がわからない。
魔女はわたしを先導した。歩くのに適した――それは二足でも四足でも変わらない――人間や他種族が日常的に通る道。石畳やレンガ等で舗装されてこそいないが、踏み固められた道の筋には雑草の一つも生えない。わたしは、この森に至るまでに辿った道を悪夢だと思うことにした。土地勘の無い森の、道無き道を進んできたからだ。しかし、ここには踏み均された道がある。これは日常的に人間が、或いはそれに準じた種族が通る道だ。魔女はその道を、わたしを振り返らずに進んでゆく。わたしが逃げ出してしまうなんて考えてもいないと言うように。実際問題、わたしは逃げようとは思わない。魔女がうたう鼻歌に交じって、肉食動物たちの息遣いが聞こえる。吐き出される獣くさい臭気。木々の隙間から覗き見る、月光を反射する何対もの眼、眼、眼。どれくらい歩いただろう。わたしは自分の行く末から目を逸らし、魔女の華奢な背が立ち止まったとき、その背の向こうに灯る光たちに気付く。
「ようこそ、私たちの町へ」
魔女は振り返り、蠱惑的に微笑んだ。
その町からは、生活のにおいが漂う。
ランプに灯る光、夕餉のにおい、雑踏、笑い声。
でも、どうしてだろう。
わたしと魔女以外の息遣いが聞こえない。
・或いは魔女たちの還る家
気味の悪い家だと思った。わたしは二の足を踏んだ。
「まぁそう言わずに。ここが、今日からあなたの帰る家なんだから」
わたしは何も言っていないが、大人しく頷いた。
ところであなたたちは、魔女に関する伝承を聞いたことがあるだろうか?
魔女とは厳密的に言えば、種族を指す呼称なのだという。わたしたちが普段接した、あの気難しい魔導師団の連中は人間やエルフなどで構成される部隊で、その構成兵を「魔女」と呼ぶのは一般的ではない。あなたに度胸があるなら、彼ら彼女らを「魔女」と呼んでみると良い。あなたは二度と彼ら彼女らの支援を受けられなくなるだろう。「魔女」とは忌名だ。忌むべき種族。セントレイクやシラクレナ、ヒノイやフェンテスといった国々がグランシュライデに顕現して久しいが、魔女たちは元来この地に住まう者たちだと提唱する学者は少なくない。そうでなければ辻褄が合わないのも事実だ。例えば……、そう。辻褄が合わないのだ。
そして何より、彼女たちはわたしたちに友好的ではない。
「こんなに優しい私が?」
わたしは考えるのをやめる。
「なら次は、考えるのをやめるのをやめてみましょう?」
魔女がうたう鼻歌についていく。
薄暗い家の中に、わたしと魔女の足跡が響く。キィキィと鳴る床板。子どもたちが走り回る音、笑い声。それを窘める老女のしゃがれ顰めた声。食器の鳴る音。山羊肉を煮込んだスープのにおい。川のせせらぎ。飛び回る虫たち、その羽音。わたしはそれらを感じ、思考を捨てた感覚器となる。ここはとても賑やかで、わたしと魔女の二人ぼっちだ。
わたしは無性に帰りたくなった。
ここが、わたしの家なのに?
わたしはどこに帰るのだろう? どこから来たのだろう?
・或いは粛々たる魔女たちの葬列
「大丈夫、心配しないで。そこは私たちが還る場所だよ」
・或いは魔女たちの素晴らしき工房
その工房は、無限に続くようにわたしには見えた。終わりの見えないその奥からは、様々な声が聞こえていた。子供たちの笑い声。老女のしゃがれた予言めいた声。断末魔にも似た叫びもあった。魔女の常に湛える謎めいた余裕の笑みの奥にさえも、わたしには無限の広がりがあるように思えてならない。
「魔女の工房で何が作られるかを、あなたは知っている?」
魔女の問い掛けに、わたしは首を横に振る。
「夢のみなもと。決して覚めることのない、わたしたちの幸福のみなもとを」
わたしには、相変わらず魔女の言葉がわからない。
無限の工房のその最奥を想像する。
そこに存在する、最後の希望を夢想する。
わたしは、それがそこにあれば良いと願う。この戦禍が渦巻くグランシュライデを覆い尽くす、飛び切りの希望を。わたしたちはわかり合えない。エルフとの同盟は希薄な関係だ。その寿命差故に、根源的に、わたしたちとエルフの価値観は交わらない。ドワーフとの諍いは絶えない。彼らが命以上に守る鉱山を、わたしたちは河川の流れと同じにしか思っていない。オークとの和解を考える者はいない。双方に甚大な被害を及ぼしたあの長い長い戦争は、わたしたちの孫の代になっても語り継がれているだろうから。
そんなわたしたちが、誰とわかり合えると言うのだろう。
だから、それがあれば良いと願う。
それさえあれば、わたしは、魔女ともわかり合えるのではないかと思っている。
「あなたの望まぬこの旅路の中で、それは見付かったかな?」
だから、工房の奥をわたしは見つめる。
その工房は、無限に続くようにわたしには見えた。終わりの見えないその奥からは、様々な声が聞こえていた。子供たちの笑い声。老女のしゃがれた予言めいた声。断末魔にも似た叫びもあった。魔女の常に湛える謎めいた余裕の笑みの奥にさえも、わたしには無限の広がりがあるように思えてならない。
最後の希望の在処は、
・或いは魔女がうたう慈愛の子守歌
ねむれ、ねむれ
とわのゆめ見る、わが子たち
小さくあたたかな、あなたの手を
ママはずっと、はなさない
ねむれ、ねむれ
ひかりのくるみに、つつみましょう
とわにさめない、おわらない
ママはずっと、ここにいる
ねむれ、ねむれ
ねむれ、ねむれ
・或いは或る魔女の追想
「思い返すのはいつも、あのうんざりする未来のことばかり」
・或いは魔女たちの黎明
わたしは生まれて初めて、それを美しいと思った。
・或いは改竄された魔女たちの歴史
「全てが正しい。間違いなんて何一つ無い」
「過去は間違わない」
「間違っているのは、いつだって私たち」
「でも、間違いだらけの私たちが作る歴史は」
・或いは魔女が起こす原初の奇跡
魔法を使う瞬間を見られるのを、魔女はひどく嫌がった。
「奇跡の総量は、はじめから決まっているんだ」
観念的な話はわたしをはぐらかすお決まりだが、その時の魔女の様子はいつもと少し違った。
「そもそも、夢を他人に見られるのは嫌だろう」
魔女にしては真っ当な言葉だった。だから、わたしは言葉を失った。
「……原初の魔女の話を知っている?」
しばらくして、魔女はそう訊いた。わたしは首を振る。
「原初の魔女は、その壮大なちからを以てして、この世界を救おうと奔走した。魔法は万能ではないけど、皆を助けるのには役立った。魔女は原初の魔女しかいなかったのだから、魔女の評判は瞬く間に市井に拡がり、皆は魔女に縋った。私を助けてほしい。私が一番不幸だ。私以上に苦しんでいる者は他にいない。魔女はその声たちに耳を傾けた。あいつが私を不幸にする。あいつのせいで不幸になった。あいつを不幸にしてほしい。魔女はその声たちが望む未来を叶えてやった。……だが、魔法の効き目はまちまちだったようだ。後世の魔女たちが解析したところ、どうやら魔法がもたらす奇跡は、奇跡を望む者が潜在的に持つ奇跡量に依存するのだと判明した。原初の魔女に助けられた者は沢山いた。だが、助からない者も沢山いた。不幸を脱した者がいた。魔女により、不幸をもたらされた者もいた。以降の研究により、奇跡学は大幅な発展を見た。奇跡量の限界は個人だけのものでなく、この世界が有する奇跡量すらはじめから決まっているという観測結果が得られたんだ。私たちはもう随分と疲弊していたから、人間に魔法を与えるなという不文律は既に一般的だったけれど、それは欲深く際限の無い人間たちへの忌諱だけではなくて、この世界の奇跡という限られた資源を守るためでもあったわけだ」
わかるかな? と、魔女は一呼吸あけて言った。
わたしはわからなかったから、ふるふると首を振った。
「わからなくていいよ」
魔女は言った。
「あなたはわからなくてもいい」
魔女の表情は、子守する母親のように穏やかだった。