「だめだめな自分」も捉えかた次第。なのかもしれない
最近はあまりテレビを見ないのですが、ドラマは好きでTVerを活用しつつ見ています。
「ミステリと言う勿れ」は出演者を知ったときから絶対見ると決めていて、実際かなりハマっています。
「めっちゃいいこというじゃん…」
って毎回なってるんですけど、1話はとくに今の私に響いたので書き残しておこうと思います。
事実と真実のちがい
1話でとっても印象に残っているのが「事実と真実」の話です。
事実はひとつしかないけれど、真実は人の数だけ存在する。だから、誰かが嘘をついていると決めつけることはできないよねっていう話。
話が食い違っていたとしても、「どちらも嘘をついていない」ということはありえるのだと。
ドラマを見ながら、そいえば村上春樹も「事実と真実」について書いてたなーと思い出したんですけど、やはりとても心に残っていたようでnoteに書いてました。
ひとつの事実をみたときに、どう思い、どう感じるのかは人によって違うので、あくまでもその人がそう言うのであればそれがその人の真実であるということなのかなと。
確かにその通りだなと感じるし、その違いには敏感でありたいなと思った私がいたんです。
でも、「確かにそうよな」って理解することと、自分ごとになるまでの間には溝があるらしい。
フィルターのかかった真実の中で生きている
なぜ溝があると思ったのかというと、本当にたまたま前職でお世話になった上司と連絡を取っていて、フィードバックをもらったからです。
メッセージの終わりに私はこんなことを送りました。
「泣きっ面じゃない私も見てもらえるように頑張ります」
なんでこんなことを送ったかというと、前職時代の私は本当によく泣いていたし、仕事の楽しさなんか全然わからず苦しんでいて、ボロボロだったから。
で、返ってきたメッセージがこちら。
「不思議なもので、泣きっ面のイメージはあまりないんだよね」
このメッセージを読んだ時点で、目からウロコすぎたんですけど…。
そのあとにこうも続けて伝えてくれました。
「自分の中では泣きまくった記憶がのこってるんだろうね。過去さえ見方次第だから不思議」
この言葉で、先日みた「ミステリと言う勿れ」の事実と真実の話が私の頭の中でフラッシュバック。
私はあくまでも自分フィルターのかかった世界で生きている。私にとってはそれが真実で、だから前職時代泣きまくっていたことは真実です。
でも、上司から見た私は、別にそこまで泣きまくってはいなかった。私なりに頑張っていたし、上手くできていたこともあった。これも真実としてここに確かにある、らしい。
真実ばかり見て、事実をどこかに置き忘れていた
ドラマで「事実と真実」の話を知って、理解したつもりだったけれど、上司とのこの会話でやっと自分ごと化したのでした。
そして、思ったこと。
「自分の中にある真実ばかりを見つめすぎて、事実をどこかに置き忘れていたんだな」
私の真実の中では、前職の私は本当になにもできないポンコツで、入社した時も泣いてたし、働いている時も泣いてたし、退職した時も泣いていたんです。
確かにポンコツではあったのだけど。もしかしたら本当はそこまでポンコツでもなかったのかもしれない。もしくはポンコツではない部分もちゃんと持ち合わせていたのかもしれない。
そう思ったら、確かにテレアポを必死にやって同期で1番の開拓数だったこともあったし、研修のプレゼン大会では準決勝まで残ったこともあったし、人材紹介の営業なのに100万の広告枠を売ったこともあったし、求人紹介メールもよく褒められていた。
これは事実としてそうなんですよね。
めちゃくちゃ泣いてポンコツだったところだけを切り取って、ほかの部分をなかったことにしていたのは私だったのかもしれないなあ。
感情と事実を切り離して見てあげたい
私が見ている世界は、どうしても私の感情が乗っかってきてしまうから、つらいなとか、苦しいなとか、もやもやする感情についつい引っ張られすぎてしまう。
前職での体験もたぶんそうで、もちろん営業として大きな成果を上げることができたかでいうとNOなんですけど(泣)。
いやな記憶やだめな自分の思い出をどう捉えるかって、自分で決められるのかもしれないとすごくポジティブにいま感じています。
そのためには、感情は一旦はじっこに置いておいて、事実だけ並べて冷静に見てあげたらいいのかなって。
そしたら、もう少し過去の自分に対して優しくできそうな気がします。
これからも、そうやって自分の気持ちと向き合えたらいいな。