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本と居場所とわたしについて

友人が少ない。

コンプレックスとまではいかないけれど、クラスの中心で明るく笑う集団を見て、わたしはあそこにいる人ではないと思って育った。

いまも大勢での会話は相変わらず苦手です。

3人ぐらいまでだったら話せるのだけど、それ以上になるとつらいと思うことが多い。

なんで辛いのか、なぜあの集団の中に入っていけないのか、もしくは入っていきたいと心から思えないのか。学生時代のわたしにはわからなくて、ただただそういう人間なんだなと自分のことを思っていました。

最近は、孤独に耐えられなかったのだろうなと思う。

みんなでいてもどこか孤独だった。というか、みんなでいればいるほど「違う」が際立って孤独だった。

そして笑っているみんなはこの孤独を感じていないように思えて、怖かった。

みんなでいるときの孤独にわたしは耐えられなかったのだろうなと思う。

わたしの孤独はなくならない。でも、安心して孤独になれる場所があって、それがわたしにとってはSNSと本の中だった。

孤独をなくそうとするのではなくて、孤独をいかに受容するか考えたのだろうか。幼いながらに考えた生存戦略で、それが世界とつながる唯一の方法だったとも言える。

孤独を受け入れることで、わたしはようやく世界とつながることができた。

あるいは、自分の中にあるもやもやしたものが何なのかわかりたくて、言葉を探していたのかもしれない。

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いま、学生時代よりもはるかに人とのつながりに救われていて、違いを楽しめるようになったし、わたしという人をかなりフラットに受け止められるようになったから、苦手意識は拭えないまでも、安心して大人数でいられる場所も増えている。ありがたいことです。

なんなら自分でコミュニティ運営をしていて、交流会なんかも企画する(わたしの企画はあまり大勢で話すことはしないけれど)。

それでも、小学生ぐらいから生存戦略として育ててきた「安心して孤独でいられる場所と時間」がいまでもものすごく大切だ。

だから本を買い、ひたる時間が大事なのだろう。そしてSNSで書くことをやめられないのだろう。

誰かに褒められたくてやるのでも、認められたくてやるのでもなく、そうせざるをえないのだろう。

最近ふと本屋をやりたいと言い出して、なんでだろうと思って考えていたのだけれど、たぶん本屋をやるというのは目的ではなく手段で、わたしが本に救われたように、本を媒介にして誰かを救いたいのかもしれない。

もはや本でなくてもいいのかも知れなくて、ここでは安心していいよと伝えられる居場所が作りたいだけなのかもしれない。

とかなんとかきれいごとではなくて、単純に過去のわたしを救いたいのかもしれないな。もはやいまの自分を救いたいのかもしれない。

ということを思ったので書き残しておきます。

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きよみや みずほ(mizuho)
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