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「友達が少ない」と自称していたけど、そうでもなくなってきている話

わたしは友達が少ない。

と、思って長らく生きてきた。いつぐらいから思いはじめたかというと…小学生のときにはそう思っていた気がする。

「友だち100人できるかな」という歌を知ったときには「ふざけんな!」と半ギレしつつ、もし友だちを100人作ることがデフォルトの世の中なのだとしたらわたしはどうすればいいんだと泣きべそをかいていた。

小学校でも中学校でも友達は100人もできなかったし、もはや人生で友人と呼べる人は片手で数えられるくらいしかできないのではと思った時期もある。

その都度友達と呼べる人はいたけれど、その人との関係性が本当の意味で「ともだち」だったかは少々疑問だ。

友達と思っていた人が数ヶ月後には友達ではなくなるということもあったし、友達が夏休みの間にみんないなくなったこともあった(どんだけ)。

友達とはとても儚い。信じるのは怖い。友達の前で自分でいることもなかなか難しい。

そう思って、本とSNSの中に逃げ込んで生きてきた。

中学2年生の頃、やっと友達だと安心して思える人と出会い、この人たちを本当に大切にしようと誓った。いまでも仲良くしてくれている、大切な人たちである。

これから先も友達が100人になることはないだろうし、もしかしたら友達と呼べる人は多く見積もっても10人ぐらいになりそうだから、友達になれた人のことを本当に大事にしようと、このときに決めた。

とはいえ、友達がそもそもできづらい性格なのだ。大切にしようと決めた友達のことをうまく大切にする術を知らなくて、大きく傷つけてしまったこともあるし、どうすれば上手に大事にできるのか正直よくわからなくて死にそうだった。

それでも、いまできる限りの全力で、出会えた大切にしたいと思える人をわたしなりに大事にしてきたつもりではある。

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さて、いまわたしには何人の友達がいるだろう。

子どもの頃は「友達になろう?」と真正面から言われて友達になったし、学生時代は毎日顔を合わせて一緒に過ごす人が友達みたいな感覚もあったので、友達というのもがわかりやすかったけれど、大人になってから「この人は友達」と線引きするのは結構難しい。

なので、友達が何人いるかは正直よくわからない。

でも、学生時代のわたしにとって、友達は本当に大切な人であった。関係性をしっかりと守りたいと思える人。それがわたしなりの友達の定義であったように思う。

その定義をいまのわたしに当てはめると、正直ものすごいたくさんいる。大切な人。本当にたくさんいるのだ。

学生時代、大切にしたいと思える人をわたしなりのやり方で大切にすると決めた。

どうせ人生で大切だと思える人なんてそんなに多くないのだから、その人だけでも大切にしたいと本当に思っていた。

壊さないように慎重に、束縛することなく、わたしなりのやり方で守ってきたつもりだ。

でも、そうやって出会えた大切にしたい人を少しずつ大事にして、30年ほど生きていたら、驚くほどに大切な人が増えていた。

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いまのわたしは友達が多いのか、少ないのか。そんなことはよくわからない。

でも、わたしの言葉をまっすぐに受け止めてくれて、行動を応援してくれて、ときには率直に意見をぶつけてくれて、一緒に考えてくれる。そういう大切にしたい関係性を作れたと感じる人は本当にたくさんいる。

毎日顔を合わせなくても、毎日のように言葉を交わさなくても。互いの近況を事細かに共有できなくとも。大事に思い合える関係性の人が、こんなにもたくさんいるのである。

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変わらず人間関係を構築することは難しい。

言葉は恐ろしく簡単に人を傷つけるし、信頼関係は思ったよりも簡単に崩れ落ちる。

出してしまった言葉を口の中に戻したくて、死にそうになることも度々ある。

それでも、出会えてよかったと思える人とちゃんと出会えるし、関係性を大事にし合うこともできる。

学生の頃に思い描いていたよりも、わたしはたくさんの人と関係を築くことができているし、たくさんの人の言葉を信じることができるし、わたしの言葉はちゃんとその人たちに届く。

友達ができないと嘆き、人生はクソだと諦めなかった自分のことを盛大に褒めたい。

10代の頃のわたし、驚くことなかれ。人生は甘くないが、そこまで冷たくもない。

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きよみや みずほ(mizuho)
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