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「わたしらしさ」を大事にしながら、でも縛られずに生きるために

先日、「やりたいこと」を見つけるときにおちいった罠というnoteを書きました。

この中で、わたしはこう書いたんですね。

「どこまでもその人らしい人」がわたしは好きだし、そういう人になりたいんだなってわかった

で、「らしさ」ってなんやねんということもよく考えているので、書いておこうと思います。

ちなみに、わたしの2023年のテーマは「らしさからの解放」です。

とにかく「らしくありたい」とわたしらしさを探しているんだけれど、「らしくある」ことの窮屈さも感じている。「らしさ」が自分を縛ることもあるということです。

例えば、何か新しいチャレンジをするときに「周りから何て言われるだろう」と思うときって、少なからず「これまでのわたし」と「これからのわたし」の差分に対してどう思われるかを気にしているってことだと思うんですよ。

「新しいチャレンジをする」とか大きなことでなくても、「普段は白や黒の服が多いわたしが赤い服をあえて選ぶとき」とかだって、「わたしらしくない」と思われることが少し怖くて躊躇したりするじゃないですか。

そういう小さなところから、わたしたちは「らしさ」に縛られて生きている。それでもなお、何者かになりたくて、わたしらしさを探している。

壮大な矛盾だね。

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矛盾しているなって思うけど、それでもどちらも本音だし、どちらもとりたいのだ。

つまり「わたしらしく生きながら、わたしらしさに縛られずに生きる」ということをやりたいわけです。

それをするために気をつけていること。

①「わたしらしさ」は非常に多面的であることを自覚的であること
②「わたしらしさ」はあなたとわたしの間に存在すると自覚的であること

2つにわけて書いたけれど、この2つは繋がっている。

「らしさ」というとき「これがわたしだ」と端的に表現したい気持ちが出てきてしまうときがあって。でも、やっぱり人は非常に多面的で「これがわたしだ」と言い切れることはないと思うんです。

誰といるかで変わるし、どこにいるかで変わるし、何をしているかで変わる。年齢を重ねるごとに変わることもある。もちろん変わらないこともある。

友人から見えているわたしと、家族から見えているわたしと、子どもから見えているわたしと、仕事上のわたし。きっと少しづつ違って、そのどれもわたしだ。

だから、「わたしらしさ」を探すとき、できるだけ多面的であることを忘れないようにしています。

そして、「わたしらしさ」が立ち上がるとき、それはいつも「わたしではない他者」が必要です。

わたしらしさは「あなたとわたしの間」にいつもある。「この人といるときのわたし」「この人から見えているわたし」そういう積み重ねが「わたしらしさ」を作っていく。

優劣をつけるということではなく、比較することでらしさは見えてくる。自分だけで探すんじゃなくて、誰かと一緒に探していくものだと思うんです。

「らしさ」は「どうしようもなくにじみ出てしまうなにかを、自分ではない誰かが自然と受け取って感じとるもの」なのかもしれない。

だからこそ、多面的であるということです。

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この2つに自覚的であると見えてくること。

らしさというのは非常に多面的でわかりやすく定義できないし、らしさはいつも他者との間に存在するので、らしさは誰といるかで変わる。

だとしたら、「この行動はわたしらしいか」なんていちいち考えている意味はあまりないのかもしれないですよね。

できることは「無理をしない」それだけ。

やりたいことをやり、楽しいときに楽しみ、嫌なことをできるだけさけ、やりたいと思うことの中のやりたくないことは全力でやりにいく。

そうやって、ただ無理せずにそこにいるだけで、わたしらしさは勝手に相手に伝わっていく。

そういうあり方をしていると「いつ、誰といても、らしくあれる人」というのができあがるんじゃないかなって。

そんなことを考えています。

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