プロ転向2周年によせて 自分の物語を生きぬく
羽生くんをみていてハッとする瞬間はいくらでもあるが、最近一番ハッとしたときは、RE_PRAY宮城公演千秋楽の最後かもしれない。
わずか1か月前に発表された追加公演。私は何とか予定をあけて、映画館で鑑賞した。4月初めの火曜日だというのに、決してアクセスのよくない現地に何とか都合をつけて集まった強火のファンたちは、一面に色とりどりのバナーを掲げてありったけの声援を送っていて、その熱量は映画館でみていても壮観だった。
そんなさなかであっても「見て…もらえるかも…わかんないですし…」という言葉が、自然に出てくるのが、羽生くんなのだ。
プロ転向後初の単独公演だったプロローグ。
北京五輪後は北京落ちが大量出現していて、プロ転向の話を聞いても何にも恐れることはないなーという状態に傍目にはみえただけに、本人はそんな気持ちでいたのかと、思ったものでした。
羽生くんがやろうとしてたことは他の一般的なプロスケーターとは全く違う道であったから怖くても当然であったわけだけど。
それにしてもこのアイスショーは、あの時点ではこれまでの「集大成」にしか見えなかったのに、「プロローグ」と名付けた決意に脱帽だ。
私は、「プロローグ」は「これを序章にする」、という決意表明のショーだったと認識している。
そして羽生くんはこの2年間、あれがプロローグだったことを、十分納得させられるように歩んでいるのだ。
そしてプロ転向後のどのアイスショーも大盛況といってよかっただろう。
会場の興奮は手に取るように明らかだったし、それに喜びや充実感を感じつつも、人の感情がとても移ろいやすい、儚いものであることを、きっと知っている人なんだと思う。
幸せを感じれば感じるほど、その儚さが頭をよぎっているように、私にはみえる。
RE_PRAYの物語のキーワードのひとつが水ということもあり、私は方丈記の冒頭の一節が頭をよぎる。授業で習っただけで別に詳しいわけではないが。
(そういえば方丈記は災害文学などといわれてたんだっけな)
コンテンツに溢れたいまの社会で、「見たい!」と思わせる価値があるものを作り続ける。
それはどんなに厳しいことなんだろうか。
一生懸命、自分にとって価値があるものを熱意をこめて届けたとしても、他人にとっても価値があるかなんて、わからないものだし。
私は小さい頃から、いろいろなものを好きになったけれど、じゃあそれら一つ一つを、一番好きだった瞬間の熱量で常に好きでいて関心を持ち続けているかといえばそんなことはない。
私の場合、一度好きになったものを嫌いになることはほとんどないのだが、なんとなく疎遠になってしまったものたちがいる。
好きな気持ちはあっても、状況が整わなければそれに時間を費やすことができなくなるし、そんなふうに時間を奪われていくうちに、当初の熱量を忘れてしまったりするものだ。
だから、「見て…もらえるかも...、わかんないですし...」という言葉を聞いた時、胸が痛んだ。
いま、私は、羽生くんの演技を見たいと熱烈に思っている。羽生くんのことはずっと好きだろうし応援すると思う。でも同じ熱量でずっと見続けるなんてことは、今までの自分を思えば言えない。自分をそこまで信用できない。
今この瞬間の好きが永遠に続くと信じて「ずっと好き」「一生好き」と言い切ってしまえる人の無邪気さを眺めるのは好きだが、私自身はそうは、なれない。
羽生くんは、ひとりひとりに心を寄せるタイプの人だけれども、でも、こちらからの一方的な矢印なんて、何の約束もない不安定なものだ。
だから羽生くんはその矢印に何も責任を負う必要なんてない。
迷ったときは誰かのためじゃなくて、自分自身をなにより、大切にして、自分の物語を生きぬいてほしい。
そんなことを思う二周年。
私も、私の物語を生きられますように
※報知さんの「羽生結弦」記事
https://hochi.news/tag/%E7%BE%BD%E7%94%9F%E7%B5%90%E5%BC%A6
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