「ゲームは1日1時間」ルールが今の私をつくってくれたかも
今回の日刊かきあつめのテーマは「#自己紹介をゲームで語る」です。
任天堂「ファミコン」(family computer)や「スーファミ」(super family computer)が急速に広まった頃私は小学生だった。
クラスメイトは、「ファミコンがある家」「スーファミがある家」「スーパーマリオのカセットしかない家」「マリオカートや桃太郎電鉄まである家」「それだけでないたくさんのカセットがある家」と様々だった。
たくさんカセットがある家は豊かな感じがしたけど、じゃあファミコンがない家は貧しい感じがしたかと言うとそんな事はなく、
「厳しいおうちなんだな、ご両親がそうゆう教育方針なんだな」
と子供ながらに考えていた。なぜならうちにもファミコンなかったから。
ファミコンが欲しいとしつこい私に「目が悪くなる」「頭が悪くなる」と母親は繰り返し宥めた。だからこそ友人宅でのファミコンはなんだがこっそりとても悪いことをしている、でも楽しい!なワクワク感も相まって余計に病みつきになった。
しかし当時どこのうちでゲームをしても「ゲームは1日1時間」ルールが概ね適用されていた。時間を過ぎるとだいたいそのうちの母さんが
「1時間過ぎたから終わりよ」
と言いに来た。
しかし1時間じゃとても足りないのである。だいたいスーパーマリオをやるのが定番だったが、1人ずつ順番に操作するため自分の時以外は見てるだけなのだ。集まる人数が多かったりすると余計にだ。それでもずっとでも見ていられる。そのくらいマリオは角ばった画面と軽快な電子音で私を夢中にした。
マリオとの別れの後、おやつに出された甘ったるいカルピスやフルーチェを流し込むと名残惜しい気持ちもいくらか薄らいだ。外で遊んだりリカちゃん人形でままごとしたりウォーリーを探したり宿題やったりなど、子供らしさを見せて大人を安心させるのが常だった。
妙に徹底されていた「ゲームは1日1時間」はあの高橋名人(←知らんひとはググって欲しいのだが、とりあえずファミコン名人である)の言葉で、その後ろには、
「ゲームは1日1時間。外で遊ぼう元気良く。僕らの仕事はもちろん勉強。成績上がればゲームも楽しい。僕らは未来の社会人」
と続く。
ゲームの申し子とも言える高橋名人でさえその中毒性を危惧し子どもたちへ忠告するとともにエールを送っている。やりたいことだけやればいいんじゃない。やるべきことややらなきゃいけないこともあるしバランス良くね、てところか。
30年後。周りの大人たちや名人の言う通り、ゲームを1日1時間に抑えて外で遊んだり勉強したりしてた小学生は「未来」でなんとか「社会人」として過ごしてます。
編集 らいむ