見出し画像

私の書斎

 私には書斎がある、と言ったらひとは私を裕福な者のように思うだろうか。

 私はこの文章を私の書斎で書いている。軽快な音楽が流れ、傍にはコーヒーカップが置かれている。大きな窓からは冬とは思えないほどの暖かい日差しが降り注ぎ思わず上着を脱いだほどだ。大変居心地がいい。しかしそういった環境は私が設えたものではない。流れる音楽を選ぶことはできないし、時には騒音に悩まされることもある。空調が効き過ぎると思うことがあっても自分でその加減を調整することはできない。知らない子供が私を見ている。老爺が舌打ちのような音をさせながら飲食している。

 なんだか雲行きが怪しくなってきたと思われるかもしれない。つまり私が書斎と呼び今この文章を書いている場所というのは、ミスタードーナツの店内なのだ。おかわり自由のブレンドコーヒーを飲みながら、iPadにBluetoothでキーボードを接続してカタカタとこの文章を書いている。

 何が書斎だ、公共のスペースを占有して憚るところのない恥知らずめが、などと怒らないでほしい。別に一杯のコーヒーで何時間も居座るということはしていないし、店内が混んでくれば帰るつもりでもいる。それに、ひとりでこういう店にいる時にすることといえば、本を読んだり勉強をしたり、仕事をしたり、それ以外の書き物をする人もいるだろう。ひとと来て歓談している人を除けば、つまりやっていることは書斎にいてすることと変わりがないのだ。

 私にとっては家からも職場からも程よい距離で、コーヒーをおかわりすることができるこのミスタードーナツが書斎と呼ぶのに相応しい。近くにはマクドナルドもあるのだが、マクドナルドの方が騒音が大きいことが多いし、コーヒーをおかわりすることもできない。いちいちレジに並んで買い足すのは面倒だ。コメダ珈琲店にもよく行くが、ふらっと行くのには遠過ぎる。やはりこのミスタードーナツを私の書斎と呼びたいのだ。

 それでもミスタードーナツはミスタードーナツであってあなたのための場所ではないのだから書斎と呼ぶのはおかしいと言われるのであれば、白状しなければならない。これは私の好きな作家の流儀に則ってのことなのだ。

 私の好きな作家に檀一雄がいる。太宰治の友人として、またライフワークのように長期間に渡って書き継がれた代表作「火宅の人」の作者として、そして女優檀ふみの父親として知られている。その檀が初めて発表した小説「此家の性格」は文芸評論家古谷綱武の目に留まり、古谷は檀を訪ねて朝まで酒を酌み交わした。さらに古谷は先輩作家の尾崎一雄にこの小説を読んでもらおうと、檀と一緒に始発電車に乗って尾崎の家を訪ねる。尾崎の小説「なめくぢ横丁」によると、徹夜で原稿を書いていた尾崎は二人に「ああそう。ーーええと、僕んちの応接室は、離れになっている……そこの諏訪神社の拝殿なんだけど。僕、あとから行きます」と告げる。当時尾崎は一間の貸屋に住んでいて幼い子供と妻もいたため、来客時は隣接している神社で応対していたのだ。この、貧乏による不便を風流に言い換えるやり方がなんとも言えず良い。

 尾崎は檀の小説を褒め、以後二人は親しくなるのだが、そんな尾崎の風流を檀も良いものだと思っていたのだろう、それからだいぶ時が経ち尾崎が亡くなったあとに発表した檀のエッセイ「来る日 去る日」にも同じような表現がある。これは檀がポルトガルのサンタ・クルスという海辺の街に一年くらい滞在していた時のことを書いたエッセイなのだが、サンタ・クルスの浜の一角には一軒の廃屋があり、檀はこれを「王宮」と名付けて親しんだという。断崖の道を歩きながら、ここは中の広間、ここは奥の広間、と妄想を広げたのだそうだ。夏はバカンス客で賑わうサンタ・クルスの浜も季節が変わるとすっかり人がいなくなってしまう。そんな浜を断崖から眺めながら「海ハ我ガモノ……。海ハ我ガモノ……」と感じ入ったそうだ。これも海外生活の寂しさと所在なさを風流に変える尾崎流の処世だろう。

 私もそりゃあ書斎が作れるなら欲しい。だがそんな金は無いのだ。だからせめてミスタードーナツでコーヒーを啜りながら本を読んだりこのような駄文を綴るわずかな時間にだけは、ここを我が書斎にするとひとり胸の内で宣言したいのだ。

いいなと思ったら応援しよう!