「気候」市民会議という名の免罪符 vol.1
私は今日に至るまで
実行委員のメンバーとして気候市民会議の運営に携わってきた。
そして運営に関わる中で自身の加害性について、
遅すぎるくらいなのだがここ最近気づくようになった。
その加害性について猛省している最中なのだが、
それについてなるべく早い内に吐露したいと思い
自己満の側面もあるとは思うが、主として自戒の意味で綴ろうと思う….。
先ず最初に気候市民会議というものがどういうものか
読者には以下のリンクを参考に
前提となる知識を付けていただければと思う。
私が今関わっている気候市民会議では
今年の6月から11月にかけて月1回会議が行われ
計6回行われるものとなっている。
実行委員として関わり始めたのは1、2月頃からだったと記憶している。
つまり第1回目の会議が行われる6月までは準備期間、
6月から11月まではPDCAを繰り返し、会議の運営を進めてきた。
今日まで色々あった。
楽しい記憶よりも、辛いしんどいキツい記憶の方が
どちらかと言うと、と悩むまでもなく明確に多いように思う。
私は実行委員の中で、意思決定層にはいない。
と言うより実行委員のシステムそのものが
民主的ではなく階級的なヒエラルキー構造となっている。
(と私は思う)
仮に(偉そうに)評価できるポイントがあるとするならば、
意思決定層ならびに実行委員メンバー全体の
ジェンダーバランスだけはとれていることであろう。
(一人一人の性自認を知っている訳ではないので、
見た目やコミュニケーションをとる中で想像する限りにはなるが)
6月までの準備期間中の比較的早い段階で1度
これではよくない(まずい)と明確に思うことがあった。
意思決定層から実行委員メンバーに情報の共有があった際に
間違いなく若者の視点が抜けていると感じたことだ。
(若者の視点とは…や、端的に「若者」とカテゴライズするのは
決して好ましいものではないが、
ここでは分かりやすくそのように表現したいと思う。)
事実、意思決定層には50代以上の年齢層しかおらず
これでは若者の視点が欠けやすいよな、とその時思ったものだ。
このまま準備が進んでいくと、
多様性の実現し得ない市民会議の設計になっていくのではないか
という恐れを感じた私は
「意思決定層に若者がいた方がより柔軟な議論が行われ、
より良い市民会議が作れるのではないでしょうか」
という様な事をその時グループチャット内で提言した。
そもそも市民会議に選出する市民の中には
10代や20代の人ももちろん対象になるはずなのに
参加市民を選ぶ(決める)側(※1)に当事者がいないのは
今の政治や社会の構造と同じじゃないか、と何より思った。
そんなの自分は嫌だし受容できない。一番の理由はそこにあった。
【※1:実行委員メンバーに10代20代がいない訳ではないが、
限りなく少ないのと積極的に運営に関わる人がいなかったため
a.実行委員メンバーにそもそも若者をもっと誘致する。
b.意思決定層に若者を入れる。
という二重の課題を自分は感じていた。】
そしてチャット内では特に返事もなかったため、
後のMTGの場でこの話題について再度提言してみた。
その時言われた返事は確かこんな感じだった。
「貴重な意見ありがとうございます。
今後も何かあれば積極的にご意見ください。
よい会議にしていくために沢山の意見お待ちしてます。」
…え、政治家の発言か企業の
問い合わせフォームからの返信テンプレかよ….。
正直この時、絶望した。
気候市民会議を運営しようとしている、とりわけ
意思決定の人ってこういう感じなの、、、と。
再度投げかけても否めない暖簾に腕押し感,,,、
時間が経ってもいたちごっこになるやり取り...
あれ、、、自分が相手にしてるのは現政権与党の人かな...?
そしてこのやり取りを見ているであろう他の人からも
自分の意見に追従する意見はなかった。(チャットないしはMTGの場で)
より絶望が確固たるものになるには充分すぎる出来事だった。
今思えばこの時の出来事や違和感をそのままにしてしまった
自分にも責任があると思う。
そして、自身の加害性についての話はここからである。
vol.1終わり