生い立ちパズル 特別編:母
母は、19歳で わたしを産みました。
流行に敏感で、いつもお洒落な流行りの服を たのしんで着ている人です。
わたしも いろんな服を着せられました。
着せ替え人形のように、一日数回 着せ替えられて、写真撮影するということが しょっ中でした。
わたしの服は 仕立てられることも多かったようです。
面倒で 嫌で仕方がなかったこと覚えています。
服を着せられて、
『苦しい』『脱ぎたい』『着替えたいーっ』て思っていたことが よくありました。
服が苦しくて しんどい、と言うと
母は決まって
「我慢して」と言いました。
大人になって
オシャレな服は 大抵 我慢することも 確かに多かったので これはなるほど、と思うことも時にありました。
わたしは逆に 子供たちは
自由に遊べる服を買いましたけど。
カッコよくても可愛くても
気にせず どろどろにさせてましたし。
一見、可愛がられているように見えると思います。
そして、可愛がられていたのだとも思います。
ただ わたしが求めているものとは 違っていただけのことなんだろう、と 大人になってからは 思いました。
若い頃から 小さな夜のお店のママをしていました。
子供から見ても 母は綺麗でした。
魅力的な人です。
ちいさな町なので、目立ってもいました。
気が強くて、
楽天的で、
綺麗で、センスも良い、
兄(わたしにとって叔父)とも 幼い頃は よく喧嘩をしていたそうですが 負け無しだったと聞いています。
なので、わたしの父と母と三人の暮らしの中で 凄まじい暴力にも 泣いて過ごすということはなく、
言い返すし、やり返す。
力は敵わないので 喧嘩のあとの姿は… なんとも言えませんでした。
暴力を受けた後の人の顔を 小さい頃から、日常的に見て過ごしました。
母の話を書こうとしながら、
そう言えば … ほとんど聞いてなかったなぁ、と思います。
聞くタイミングがなかったです。
母のみならず、わたしは どうやらあまり家族のことを知らずに暮らしてきたようです。
今思うと ほとんど知りません。
家族団らんもなかったですし、
話す機会もなく、知る機会もなかったんでしょう。
わたしが見て感じている母と、
あと ほんの少し 祖母から、
また いろんな人から 聞いたちょっとした話くらいですが、
長くなりますが 書きたいと思います。
わたしが小学三年生の頃に 家出をした母。
「必ず 迎えに来るから」
という言葉が 現実になることはありませんでした。
母に会いたい気持ちもあったと思うのですが、もう思い出せません。
そんな気持ちあったかな?と思うほどに 記憶は薄れています。
でも、会いたかったのだと思います。
いつ迎えにくるんだろう、と 待っていたのは覚えています。
すぐに迎えに来るものだと思っていたのですが。
月日が過ぎて 少しずつ 待つ気持ちは、
疑いの気持ちになり、誰にも聞けないまま
わたしの気持ちは 宙に浮いたままでした。
母が やってきたのは 中学生になった頃でした。
見たこともない赤ちゃんを連れてやってきて、
「みぞの弟だよ」
と 明るい声で言う。
そうすることしかできなかったのかな、と 大人になってから 思えるようにはなったけど そう思えるようになるまでの、子供時代は わたしの心は 荒れていました。
荒れているというか、空虚。
いきなり「弟だよ」、と言われて 抱っこさせられても わたしは その時 中学生です。
正しい日常が べりべりべりっと破かれていく感覚です。
『わからない』と 駄々を捏ねたくなっても、追いつかないわたしの気持ちが 生ぬるいのです。
泣いても喚いても こうなんだよ、という抗う余地もない世界が いきなり わたしの脳内を裂くようにやってきて、
有無を言わさず、今からここ、なんです。
今からここで生きろ、なんです。
容赦がない。
大人になるにつれ、そういうパターンを嘆くより 「最高かよ」と思える自分になっていきました。
やる気になるんです。
おかげで強くなりました。
母は、なんだろう。
人から好かれる人なんだろう、というのは わかります。
たまに言ってはいけない言葉で
こちらが はっとするような言葉で
人を面白おかしくなじります。
それが、なんというか 悪気も感じさせず、不思議にも 面白くしてしまうんです。
誰にでも言う訳ではなく、
どちらかというと、みんなが迷惑してる人に対して、だからかもしれません。
本人には言わないし 裏側で
軽快に 罵倒するのです。
笑いを起こします。
そこは 見ていて 凄いな、と思うこともありました。
義父の母親が とても個性の強い方のようでした。
わたしは義父が亡くなった時に 少し関わったくらいでしたが、
その母親のことを
わたし含め、弟たちの前で
「くちべにばばあ」
と 言っていたのが タイミングもよかったのか 可笑しくて 弟たちも爆笑してました。
印象的なひと言で その時の母の笑顔も
周りの子供たちの笑顔も、
いまだに残っています。
わたしが結婚していた時、
わたしの旦那さんのご両親と同居した時期があり、全く自由がなくて、田舎だったので 本当に大変な思いをしたことがありました。
まだ 20代前半でした。
当時、いろいろと 義両親に思うことはありましたが、子供たちの前で 祖父母にあたる人を そんなふうに言うことは 頭になかったので 驚きと、妙な感心をしたのです。
なんだろうなぁ。
母は、子供のまんまだったなぁ。
魂が、子供と言っても 女子高生くらいの感覚。
服だけじゃなくて 食器も好きで 雑貨も好きだったと思うけど いろいろ個性的にアレンジするのが好きな人だったので 年頃になると いい母娘関係ができたのかもしれないです。
弟たちは そんな感じでした。
わたしが、離婚を決めて
精神的に疲れ果てていた頃、
いろいろな出来事で 初めて 過呼吸を経験したことがあります。
(過呼吸はその後も 大変 苦しみました。が、過呼吸の時の心の落ち着け方は 自分なりに 必死で掴みました。今は発作も起きていません。)
精神が病むと 『闇』とかいう表現もありますが、その時 見た闇は 暗闇ではなく、
白い線を見ました。
白い線の向こう側は 真っ白で 白が反射している世界です。
気がおかしくなる一歩手前なのかな、と思いました。
白線が見えて 苦しくて苦しくて
その線を超えてしまうと駄目なんじゃないかと思います。
そちらへ行かないように 必死でした。
その頃は、祖父母もいなかったですし、
それまで 誰にも救けを求めてこなかったわたしは 身の危険をも感じたので
意を決して、母に連絡をしました。
話を聞いてもらおう、と。
ただそれだけです。
だけど、
結果、聞いてもらえませんでした。
気持ちを聞いてもらうだけだったんですけど それも門前払いでした。
母がこう言いました。
「もう…、 今 〇〇(弟)のことで頭いっぱいやから」
崖から突き落とされる勢いで
気持ちが落ちます。
そこで 初めて
幼き頃の思いを言ってしまいました。
「あれから どれだけの思いをしてきたかわかる?」
と。
母は
「そんなことわかっとる。そんなこと言われても…」
と言い、
どちらが切ったかわかりませんが その時の会話は終わりです。
暫く、地獄の底を這うような思いでいましたが
どうせ世の中こんなもん、と 特に親に対しては 悔しい気持ちを抱きました。
結構 心の底に残りました。
そんなことがあって 母とも連絡を取らずに、年月が過ぎていきました。
父とも その頃、義母といろいろとあり 連絡取っていませんでした。これはまた 最後に書きます。
そして、
10年くらい過ぎたのでしょうか。
その間 LINEで 誕生日のお祝いの言葉や、
新年の挨拶などは わたしから送っていましたが、もう話をすることも 会うこともなくなっていました。
そんなある日、着信がありました。
一番上の弟からです。
弟たちから 連絡もらうのは初めてです。仲が悪いとかではなかったのですが。
電話がきた理由は、
母が肝臓がんで 余命がもう残り少ないということでした。
そう言えば、
この連絡をもらう少し前に
わたしの同級生が 脳溢血で倒れて、亡くなったんです。
幼馴染で、母もその子の親とも仲良かったので そのことを連絡したところ、
覚えていないと言ったのが 不思議でたまらなかったのですが、
この電話で 納得しました。
本人の母には がんだということを知らせてないということでした。
そういうことだったのか。
だから 幼馴染のことも忘れてしまっていたのか。
いろんなことを思います。
記憶から消えていく少ない共通の思い出、
色がなくなっていくけど、
覚えている方が覚えておく、それだけでいい。
わたしもいつしか忘れるのかもしれないけど わたしの細胞のどこかには 残っていると思っています。
思い出せなくても
感じ続けていくんだと思います。
母のことで連絡をもらって
すぐに大阪にいる長女にも連絡をし、
長女も会いに行きたい、と言ってくれたので 大阪から急遽 帰ってきてもらって
次女と三人で行きました。
弟ふたりと妹も集まっていました。
和気あいあいと話をして 数時間を過ごしました。
母は 歳をとっていて、
しんどそうでしたが、
幸せそうに見えました。
一番上の弟は 早くから 子供もいたのですが、その孫は 毎日 母に電話してくるらしいし、
わたしが 会ったことのない姪っ子たちは 母に手紙を毎日書いて届けてくれるらしいし、
二番目の弟は
母に見せたくて 兼ねてから付き合っていた彼女と結婚を決めていたようだし、
妹も看護師をしていて、結婚もし、双子の男の子を育児中でした。
みんなで記念撮影もしました。
母は 10年振りに会っても
わたしの名前は一度も呼びませんでした。
長女と次女の名前は呼んで にこにこ話をしていました。
子供のことを可愛がってくれる様子は 本当にほっとしました。
だけど、情けないことに
わたしは、この期に及んでも
わたしに向ける母の愛を探していました。
見つからないので
幸せそうに囲まれる母を見て
つい、
なんで幸せになれるんだろう、なんてことを 思ったのも事実です。
わたしは 悲しかったのに、と思いました。
でも。
まだ、この時はこうでしたが、
あとあと 大きく魂の方向を確認するきっかけも いくつかあり、
今は 思いが変わりました。
いい歳をしているのに
全然 魂的に 成長していなかったようで
気づいてから あとで 自分を笑いました。
恥ずかしい。
恥ずかしいけど
それは あっていい感情だったんだよ。
大丈夫。
みんな何も間違えていない。
行く道がちょっと違うけど わたしは堂々と歩み進めることが出来る。
そして、そんなに日も経たず、母は亡くなりました。
お通夜だけ行くことにしました。
自分の母のお通夜なのですが、
知らない人達ばかりです。
母と対面した時に
祖母に似てるなぁ、と思って
込み上げる思いも溢れてきて
いろいろと話しかけたかったのですが
これまでのことを その時はまだ
どう終えたらいいのかわからず、
言葉よりも 涙が止まらなくて
ぼろぼろ大泣きしてしまい、
そのまま 弟たちに挨拶をして 泣きながら帰りました。
言いたいことがないのです。
話したいことがないとわかりました。
わたしからはありません。
もう少し話したかったな、とか
もっと同じ時間いたかったな、とかも思ったのですが、
たくさんの方に慕われていたようで、
もうそれはわたしの知らない景色で、
全く他人の家族のお葬式に
ぽつんといるような感じで
居心地も良くなかったです。
これが 母とわたしのすべてなのだな、と思いました。
その数日後、
心の整理をしたくて 母に手紙を書いて
海辺で 手紙を燃やしました。
『また逢うことがあったら ゆっくり話してみたいです』
それだけです。
話したいことは わたしに対してのどうして?とかではなく、母が好きなものや 母自身のことを聞かせて欲しいな、と思っています。
それから まだまだ年月を要したのですが、
母が亡くなることで
不謹慎だと思う方もいらっしゃるのかもしれませんが
わたしは、楽になったのです。
それは、もう聞けなくなったからだと思います。
母の気持ちはもう聞けない。
居るのに聞けないより
居なくて聞けなくなった、が 楽にさせた気がします。
この後 父の死も知るのですが、
わたしにとっての、
この家族は 一般的にはどうかわかりませんが、
わたしにとっては、
親とかそういうのとはまた違って、
親と考えると
いろんな矛盾点を見つけてしまうし、
感情の部分が乱れるのですが、
『命を授けてもらった居場所』として考えたんです。
最初が こうだったので
得るものは 多かった気がします。
わたしの魂が知りたかったことを最短で学ぶには この環境が最適だったのかもしれません。
無精卵で生まれてきたのだ、くらいの気持ちで生きよう、魂の望むままに生きよう、と自由に思うようになりました。
母は、とても幸せな人だったと感じます。
好きに生きたと思うんです。
きらきらしている人でした。
この後 『生い立ちパズル』は、
最後は 父の話で 終わろうと思います。
その前に こぼれ話のいくつかを ちょこちょこ書きます。
あと2話で終了です。
実は、最後の回で
わたしの幼少期の満面の笑顔の写真と、
あと、これはいまだに 迷ってもいますが、父のことで あまり表面に出せないことを 書こうと、思っています。
最後の回をもしかしたら 有料にするかもしれません。
ただただ、自分が歩むためにも必要なことなので 書こうと思っていますが、
悲しかったんです、苦しかったんです、という思いでは書いていません。
苦労ではないですから、こんなもの。
苦労っていうのが 個人的によくわかりません。
生きていく上で 苦しむことが多いのは 普通です。
それをどう切り替えて 乗り越えようとするかの 思いがすべてです。
魂が光るきっかけに過ぎない。
この世から
人が人の自由を閉ざすことがなくなるように、そう願っています。
人のことなど 言う暇なんてないです。
見てる暇なんてないです。
命は有限です。
やることが多いです。
だから たのしんで がむしゃらに
この命に愛を注いで 突っ走ります。
最後まで読んでいただいた方、ありがとうございます。
𝓉ℴ 𝒷ℯ 𝒸ℴ𝓃𝓉𝒾𝓃𝓊ℯ𝒹