生い立ちパズル⑧ piece:義母と叔父
知らないうちに いつの間にかいた、義母となる女性。その人とは とにかくわたしは そりが合わない。
いつからか 気がついたら 父からの言伝を頼まれると 祖父母の家にやってくるようになった女性。
かなり若い。
来る度 口うるさくいろいろと言われ、「あんたは弱い」という言葉をよく投げつけられた。祖母が側にいても言う。
祖母は俯いたまま。
子供だったわたしからすれば、母でもない、突然現れた他人に 口出しされるものだから 義母は わたしのストレスの根源のような存在だった。(義母が父と婚姻手続きをするのは わたしが大人になってから)
それでも わたしは 仲良くしたかったのです。仲良くできるところで 笑い合える方法があると思っていました。
わたしは、争い事が嫌い。
だけど、父の家に招かれて、遊んでると わたしとふたりの時は きつい言葉で いろいろ突っかかってくる。
父がいれば、打って変わって 猫撫で声になる。
子供ながらに それが 「気持ち悪い」と感じていました。
それでも 時々、何かのタイミングで 普通に話して 笑えることもあったから 仲良くなれるかもと思ってた。信じてた。ちょっと期待していた。
まあ、結果を先に言うと 無理でした。
心を開いてもらえない。
父は 相変わらず 殆ど仕事で 家にはいない。家に来るよう言われて遊びに行っても 父と会うのは 少しの間だけ。すぐに 出かける支度をして、仕事に行く。
そして、義母とふたりになると またお小言が始まる。
従姉妹の自慢話のオンパレードで わたしは比較され、落とされる。
そして、いかにわたしがだめかを口説いくらい長い時間、早口で言う。会う度に言うのだ。
長く早口なので 殆ど 耳には入ってこなかったけど。
ここで 人に伝えたい時 長く早口になっては伝わらないんだな、ということを 少し覚えたりする。
正直 遊びに行くのは 全く面白くなくて お小遣いをくれるから行ってたようなもの。
教育上、とても良くないことだと思う。
あとあと知るのだけど、義母は子供が産めなかったらしく、わたしのことは とにかく『存在してほしくない』というところだったのだろうと思う。
憎い存在だったのだろう。思えば そういう目をしていた。
そりゃ、仲良くなろうとしても 無理です。どんな気もちも届きません。
我が子を産めず、また、父は ずっと母が帰ってくることを望んでいたようなので 義母のやりきれない気持ちや嫉妬の矛先がわたしになったのでしょう。
子供の頃は 特に みんな 無償の愛を感じていたいはずです。
だけど、環境によって、場合によっては
周りの大人の中で 自分の存在自体を望んでいない人がいるのを 感じながら育つこともあります。
それはもう構いません。過ぎれば、どうってことないことです。
許すとか許さないとか そういうものでもありません。
そして、まだまだあります、わたしの小学時代。
叔父(母の兄)が 『ノイローゼ』という精神病に罹り、叔父家族は叔父を わたしのいる祖父母の家に連れてきます。
あんな狭いあばら家で 大人3人、子供1人。息が詰まりそうな毎日です。
わたしの大好きな天窓を指さして 夜に、叔父が
「あそこから たくさんの霊がみている」
とか言うんです。さすがに子供だったので 怖かったです。
それに、忘れもしないのは、祖母と出かけた、ほんの数時間の間に、大切にしていた文鳥が死んでいたことです。
元気だった文鳥です。
帰ると 鳥籠の中に 動かなくなった文鳥と、鳥籠の上には 飴玉が置かれていました。飴玉は叔父が置いたそう。
謎の死にされたけど、
言ってはいけないけど、
疑ってはいけないけど、
わたしは 叔父が文鳥の命を奪った、と 直感で感じていました。
早く叔父が帰ればいいのに、そんなことも思いました。
文鳥に対しては 目を離してごめん、と ずっとずっと心の中で謝ってました。
誰にも話さず 心の中で 泣き叫んで ぐっと堪えてました。
周りの大人で わたしの気持ちを救けてくれる人はいないとわかってたから。
叔父は 半年程いて 少し精神病も良くなり、家族の元へ帰りましたが、わたしは 叔父の家族のことも 少し疑問に思っていました。
なんで こんな大変な状態の叔父を 預けたのだろう。
そして、祖母は優しいけど わたしをかばってもくれないと感じたりすることも 増えました。
いろんな経験をし、大人になるにつれて 『家族』というのは 魂の基礎を学ぶステージということを少しずつ理解していきます。
だけど、子供時代に そんなふうに思うのは無理です。かなりの葛藤と闘いました。
わたしは 溺れてしまいそうでした。
それがわたしの中身となっていくのだから 人生面白いんです。
𝓉ℴ 𝒷ℯ 𝒸ℴ𝓃𝓉𝒾𝓃𝓊ℯ𝒹
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