京舞妓衣装の江戸末期から近代にかけての変遷
本文は私の大学入試の際に書いたレポートをそのまま掲載したものです。
本文にも記述していますが、私がこの話を書こうと思ったのは舞妓の過去の服飾に興味を持っている人が少なく、これによりもっと過去の舞妓の服飾に興味を持ってくれる人が、あわよくば江戸後期の服飾も好きになる人が増えてくれないかしら、と考えたからです。
文字数の都合や知識量の都合、資料が見つからなかったことにより内容が弱いところもあります。
主に吉川観方先生を参考にしています。
変なところはご指摘くださると嬉しいです。
1はじめに
京舞妓は現在、ニンジャやサムライと並び、日本のマスコットキャラクターのような役目を担っている。現代でこそ世界中からもてはやされ脚光を浴び、現代舞妓の髪型の本や写真集、着物についてなどの本は多数出版がされている。
だが、過去の京舞妓は現代のように特異な風俗ではなく町娘とさして変わらないものだった。そんな京舞妓たちは時代の流れと共にどのように変化して行ったのか、江戸後期から現代に及ぶまでを服飾を介し紹介していきたいと思う。
2 京舞妓について
京舞妓とは京都の五花街のいずれかに所属し、茶屋やホテルなどで舞などの芸で客をもてなす、芸を切り売りしている少女たちである。
現在では、中学校・高校卒業後若しくは中学校に通いながら置屋と呼ばれる舞妓や芸妓の育成期間にて三ヵ月~一年ほどの仕込みと呼ばれる住み込み修行を経た上、芸妓組合などの許可を得て舞妓へとなる。
現代では舞妓は22歳前後までが年齢の限度で、舞妓になってから五年前後で引退をするか芸妓へと襟替となる。だが、これは色々な現代の時代の変化に適合し固定されたシステムである。
例えば児童福祉法の現れる前の戦前の舞妓は11〜13歳くらいの女の子であった1)。
だが、江戸後期の曲亭馬琴の羇旅漫録には「舞子は十才ばかりより十八九までなり」2)とあり、やはり戦前に至るまでにも変遷があることがわかる。
この変化のきっかけには明治維新や戦争などの影響が大きかった。京舞妓はこのような時代の変化をもって、個性を確立し、現代の姿になった。
事項以降は実例を上げながら衣装の変遷を見ていく。
2 服飾
江戸時代に於いて舞妓はただの芸者の見習いであり、現代の様に目立つ存在ではなかった。
それゆえに資料が少なく、研究されていない分野である。服飾は特別なものではなく京の裕福な若年女性と同じ様相をしていた。
図1図2は寛政享和頃のそれぞれ年少と年長の舞妓である。3)
図1
図2
図一は嶋原褄文様赤の下着の重の五つ紋振袖。図二は裾模様の五つ紋の振袖で襟は打ち返し襟裏の赤を見せている。
この二つはどちらも赤い絞りの襦袢に白い半襟で素足であり、ともに袖上げ、肩上げがない。
白い半襟は、現代年長舞妓の白の刺繍の半襟とは関連性のない織の半襟であろう。
素足は芸者を倣ってだろうか、服飾は地味に固められており、現代の舞妓と比べて幼さを全く表面に出していない。
全体的に明治以降の舞妓とは遠く、着付けも全体に崩してあり、帯も下方である。
帯枕やぽっちりなどはまだこの時代には登場していなかった。
芸者らしい素足などの点を除けばそのころの娘風俗と違いがない。
明治維新が起こり明治に入ると日本全体が華やかな衣装へと変化した。そのあおりを受け、舞妓の服飾も華やかに変化する。
江戸期では奢侈禁止令により芸者と変わらぬ地味な服飾で「芸者見習い」として捉えられていた舞妓の風俗が明治維新の影響により大きな変化が起こる。
花街外の京の人々の変化した風俗と共に現代の舞妓に通ずる幼い様相をもちあわせ始め、積極的に他地域の文化を取り入れ始める。
図3
明治維新により、京舞妓は純粋な「京の娘」の様相ではなくなって行く。
だがそれと同時に、舞妓が芸者とは別の個性を作り出し、継承していくための前段階のキッカケであると筆者は考える。
図3は明治初期の正装時の年長舞妓である。明治初期にもかかわらず、すでに江戸期の舞妓の面影はない。現代の舞妓の様相にぐっと近づき、現代では舞妓の象徴と見られるだらり帯も短くはあるが登場している。
全体的に華やかになっており、それと同時に幼くも変化している。この時代の舞妓の前資料との主な変化点は帯留め、背高なだらりの帯、緋色に金糸の刺繍の半襟の登場である。
舞妓の特徴として数えられる大体の特徴はこの時代には現れている。
帯留めは帯留めが流通し始めた頃に流行った金具式の実用的な帯留めが舞妓にのみ現代にぽっちりと名を残し続いているのであろう。
緋色に金糸の刺繍の半衿は図1、2の舞妓、しいては江戸期の一定年齢を超えた娘からは見ることができない。
守貞漫稿の京阪の娘風俗の図解では白半襟が描かれており、浮世絵などの上方の娘風俗の資料も童女を除けば白の織りの半衿が主である事が散見されるためである。
そのため少なくとも幕末頃までは一定年齢以上の娘の風俗として金糸の刺繍の緋色の半襟は京阪の服飾にはなく、明治維新の全てが一変した空気に乗じ、舞妓の風俗にも取り入れられ、現在の舞妓風俗の幼さの一端を担っていると考えられる。
また、図にはないが現代の姿に類似したぽっくりが舞妓に履かれ始めたのもこの時代であろう。現代のかたちのぽっくりだけでなく、この頃には後丸下駄をぽっくりの形に近づけたような、現代のぽっくりの形から真ん中をくり抜いたようなかたちのぽっくりもあった。
大正時代〜昭和前半になると、舞妓の服飾にはかなり江戸風が取り入れられている。
衿を大きく見せることが流行り、それにより襟も豪華になっている。
この頃から年長舞妓は赤字に白の刺繍で真っ白に塗りつぶしたような衿をしているが、これは元々大阪の文化である。
衿の抜き具合も現在には及ばないが、深く抜かれるようになっている。
帯揚げの文化が舞妓に取り入れられ始めたのはこの時代であろう。
まだ現代の銀箔の帯揚げに固定されておらず、絞りの帯揚げも多々見られる。
一文字の現代にない帯揚げの飾り方は当時のはやりである。
児童福祉法により戦後、舞妓の年齢は引き上げられた。
だが、意外なことに大正時代~昭和前半の舞妓風俗と戦後現代にかけての服飾の目立った変化は現れない。これは第二次世界大戦により着物文化が廃れ始めや、舞妓の年齢の引き上げという時代の変化にあがらう花街の生存戦略による結果である。
今までは流行に左右されていた舞妓の服飾を時代の変化にあがらうためこれ以上の変化が訪れないように意図せずとも戦後のさまざまな変動をくぐり抜け、固定化されたと考える。
発祥は不明であるが昭和前期前後の時代には「そんなり」というものがあった(5。
舞妓が私用の外出や馴染みの客に急ぎで呼ばれた時などにする略装で簪などは飾り立てず中振袖のおはしょりで現在で言う文庫結びの格好である。京舞妓十二月の刊行された昭和三十一年には「現在では見られなくなっている」と著者の吉川観方は述べているため、昭和前期には消滅したようだ。だが舞妓の普段着という意味でのみ名前は残っており、現在でも普段着の舞妓はそんなりと表現する。
戦後しばらく昭和後期くらいまでの正装時の舞妓は雨の時は二枚歯の雨下駄を履いていた。
だがエナメルの草履の登場の影響か現代の舞妓は正装時ぽっくり以外の下駄は履かず、雨の時も雨用のエナメル草履を履くようになっている。
昭和終わりぐらいにもなると、昔は着物の下に着物と同じような形の中着を着ていたのが比翼仕立てとなった。
そして、高年齢化した舞妓を幼く見せるためか、引きずりの長さが長くなった。同時に三ツ揃であった黒紋付の礼装時の綿もひとつ減った。
中着は花街だけでなく、一般の人々からも必要とされなくなり比翼へと変化した。気温調整などの意味を兼ねていたのが冷暖房設備の充実のため必要が無くなり簡易化されたためだろう。
舞妓の衣装は、着物の変化と共にそれ専用のものになっていき、過去の日常着の着物としての姿からは完全に乖離している。
最近では舞妓志願者たちの身長が高くなり、過去の舞妓の着物を着ることができず新調が増えている。経済的な影響で舞妓の日常着にポリエステルが使われることもある。
現代では職人が減少してきており、まだ顕著には表れていないがいずれ舞妓の服飾にも多大な変化をもたらしていくのだろう。
4 おわりに
舞妓の服飾は時代時代の流行と同化し、ある程度の変化はすれど過去の服飾を現代に残した今日な存在である。さまざまな時代の特徴を備え、それがひとまとめになった現代の「京舞妓」は学術的にとても興味深い存在であるとともに、とても素晴らしいものであると私考える。
現在、舞妓の服飾は日本の服飾にかかわる職人の減少などの外的要因だけでなく、多感な時期の少女たちで構成されている舞妓たち自身の価値観が服飾へ及ぼす影響も増えてきている。
これは封権的な過去の時代にはなかった新しい変化である。三百年の歴史があり、常に時代に適合し繁栄をしてきた京都花街の服飾はこの先の時代の変化にどう適合してゆき変化するのか。
予測できないものだからこそ興味深い。
これからの服飾の変遷に期待をしていきたい。
1) 相原恭子『京都 舞妓と芸妓の奥座敷』文春新書、37ページ以下。
2)吉川観方『日本女装史』200ページ以下
3)吉川観方『日本の女装』33ページ35ページ以下
4)吉川観方 『京舞妓十二月』 16ページ以下
図1 図2 吉川観方著『日本の女装』祇園井特筆 京舞妓 34ページ36ページより
図3 吉川観方著『日本の女装』田中有美 舞妓 128ページより